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世界を暴く

承認論の心理学的基礎?

ひさしぶり。元気? 俺は全然元気じゃない。というわけで自己啓発本とかを読むわけだが、そんな中発見するのは社会心理学の通説がここ十数年の間でもけっこう変わってそうだってことだ。

スタンフォードの自分を変える教室

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WILLPOWER 意志力の科学

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例えばこういうのを読むわけだ。すると次のようなことが書いてある:「ほめれば真人間に育つとか昔言ってたけどごめんあれは嘘だ。むしろルールをきちっと決めるのが大事だって分かってきたわ」。90年代くらいからこういうことが言われだしたんだって。なるほどなるほど。で、それ読んだ俺は早寝早起きしたり食うもの変えたりしたんだけどそれは当面どうでもいい。いま問題にしたいのはこのような社会心理学的知見が社会哲学とか政治哲学に対して持つ意味の方だ。



近年の政治哲学上の大きなトピックは承認だ。これは福祉国家の失敗とかから出てきた議論らしい。福祉国家は貧困層に金その他を配るわけだが、配ったところ彼彼女らが活き活きするのでなくかえってミゼラブルな状態から抜け出せなくなってしまって問題だというわけだ。で、包摂とかそういう道具立てとともに、なるほど承認が足りなかったのだ、みたいな話が持ち出される。……俺の雑な理解ではそうなってる。

なんで承認が持ち出されるのか? これは憶測なんだが、ほめれば真人間に育つ理論と同じような基礎の下、承認すれば社会的に排除された人々もちゃんと生きれるようになるみたいに考えられてたからなんじゃないか。で、これが今日の本題なわけだが、承認論のそのような心理学的基礎って、実のところ近年の実験社会心理学によって覆されてしまってるということはないか?

これは特にバウマイスター本に書いてあったことなんだが、承認を与えるよりパターナリスティックな規律訓練を行った方が生活支援に直接結び付くみたいである。承認に関する諸議論が、この点を見落としたまま進展しているということはないだろうか? 承認承認と言っている政治哲学者は例えばホネットだけど、彼が依拠してる社会心理学はミードのそれみたいだから、この可能性は案外あるんじゃないかと思うわけだ。

またより広くいえば、社会に関する議論はどこまで人の心理についての理論を参照し、拘束されるべきなんだろうか? ホネットなんか、昔ちょっと読んだ限りでは、「承認不足ってのは資本がぐるぐるしてる中で人が物みたいに見えちゃうとこから来るんだ!」みたいな人だったと思うから、社会心理学がいくら変わろうと、資本がぐるぐるしてることが変わらない限り論理的には無傷だと思うんだよね。でもその無傷性ってのはレリバンス大きく減じてのものである他ないわけで、それってーのはちょっと不健康かなってのが最近の気分。



以上素人の思いつき。心理学本は最近暇つぶしにちょいちょい読むが、面白いのでこれからも色々見ていきたい。これとか。

モティベーションをまなぶ12の理論

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