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世界を暴く

カミュは非リアの文学じゃない

色々あって『異邦人』を読み直していて、標記したようなことを思った。よりはっきり言い直せば、現代人が『異邦人』のムルソーに共感を寄せるのは間違ってるってことだ。



ムルソーは確かにリア充ではない。この点を取り上げられて、ムルソーは現代においてもよくわからん共感を寄せられることになってるわけだが、その大半は筋違いだ。ムルソーという人物は非リアではないからだ。彼は、仕事はけっこうできるっぽいし、女にもモテる。男らしくもありそうだ。非リアが共感できるような人間ではないんだ。

ムルソーは単に世界からずれてしまってる人間なのである。

人は普通ごく自然に、母親はかけがえのないものだなあとか友情ってのは素晴らしいなあとか結婚とは一大事だなあとか、繰り返していうがごく自然に考える。いちいち理由を探してきてリーズニングするというのではない。ただ、そう考えないということが、もう発想の埒外なのだ。なぜなのか。もちろん、世界がそういう風に回っているからだ……。

そういう世界から遊離した人間がムルソーだ。彼は言葉の正確な意味で、リアルが充実していない。いや、充実しているといえばしてるんだが、現実生活においてアルジェリアの太陽を殺人よりも重く見るということを人はしないから、やっぱり普通の意味では彼はリア充ではないわけだ。

で、ここからが本題なんだが、ムルソーがこのように世界とズレてるってことには、ほとんど理由らしい理由がない。一応、経済的困窮から大学での勉強を諦めたという挫折が彼の人生に影響を与えたっぽいことは示唆されているが、書かれている限りのことから判断するに、いまの彼はほとんどこの過去を気にしていない*1。おそらく、彼は生まれつき世界からズレてるタイプの人間なんだろう。



これは非リアとは違う。非リアとは特殊に消費社会的な概念だ。

非リアは、世界からズレているという点ではムルソーと同じだ。ただ、ズレの理由が異なるのである。ムルソーは単にズレた人間だったが、非リアは世界についていけなくて世界からズレるのだ。なぜついていけないのか? 消費社会のめまぐるしさの故である。

非リアというのは世界の外に立っているわけではない。彼彼女らは実際世界に憧れている。このことを証明するのはたやすい。彼彼女らが常々もらす世の中への怨嗟がそれ自体立派な証拠だ。彼彼女らは世間に対し憎まれ口を叩くわけだが、あれほどに執着できるからには本当はそれが愛おしくてたまらないのである。非リアは世界の中で世界に憧れているのである。

だけれども彼彼女らは世界の中で世界からズレている。どういう次第で世界からズレているのか。思うに、あまりにめまぐるしい世界に、彼彼女らのエネルギーがついていけないからである。彼彼女らはあれもこれも欲望し、あれにもこれにもなりたいと思い、結局ほとんど何も果たせない。この記事ではこれについて掘り下げる余裕はないが、要するに消費社会が悪いのだ。非リアとは、消費社会における劣者の無力が言い当てられた概念である。



『異邦人』にはこのような無能力者の怨嗟はない。ムルソーのアルジェリアには、すべてを望みつつなにをも手に入れられないという全般的状況は、つまり消費社会はないからだ。彼は、消費社会の中での無能力に苦しむのではない。単に世界の外側に産み落とされている。

そして、世界の外側に産み落とされたというムルソー的感覚は、昔からある由緒正しいものだとは思うが、はっきりいって現代ではウケないタイプの話である。殺人犯の生まれを扱ったワイドショーで、「彼は生まれつきヤバいやつでした」と言われても興ざめなわけだ。ウケるのは、「あんなにまじめそうな人だったのに……」という言説の方である。われわれは世界外の異邦人という人物像よりも、世界内の無能力者という人物像をこそクリティカルなものとみなしているわけだ。

だから『異邦人』にわれわれが寄せる共感の多くはたぶん筋違いだ。したがって『異邦人』はもはや現代文学ではないのだが、最後に付け加え的に言うならば、それゆえにこそいま読まれるに値するのかもしれない。現代の諸問題、例えば非リアの問題というのは悲しいほどに矮小だからだ。ムルソーという人物は、時代を超えて存在する「世界とのズレ」の極限形態を照明する太陽なわけだが、われわれをして日々の問題の矮小さに気付かせる一種の治療機能も果たしてくれるのだ。

*1:もっとも、『異邦人』のテキストがムルソー本人の語りの形式を取っている点には注意が必要だ。学業の中絶という挫折経験や、貧しそうな生育環境が、表だって語られる以上の深刻な影響を彼に与えた可能性は実際大いにある。