pathfinder

世界を暴く

DQNアニメをDQNを正当化してるという点で以て叩くのは不当だ

個人的な不快感からある作品をクソアニメと呼ぶことは不当だ

あるアニメ作品に、気に入らない人物、気に入らないアイテム、気に入らない考えが出てきて、それが正当化されるということがあるわけだ。そのような時われわれは不快を感じ、その作品をクソだと呼びさえする。

このうち、不快を感じることは正当だが作品をクソだと呼ぶことは不当である。

なぜかというと、クソ、という言葉の使用は、個人的に不快感があるということからは正当化できないからだ。クソ、という言葉はそれ自体客観性要求を持つ。

どういうことか? クソ、という言葉は、アニメ評に関して言われる限り、対象に関する評価語である。それは例えば「Aはクソ」とか、「BはCなクソアニメ」とかいう使用場面から確認できる。日常語における「クソッ」という悪態と異なり、それは主体の感情を表出しているのではなく、客体の性質についての評価語なのだ。

対象に対して使用された言葉の真偽・適不適は、対象が経験的に観察可能である限り、対象の側の性質によって判別される。例えば「このリンゴは赤い」という言明の真偽は、発話者の主観的なリンゴ赤い感情を吟味することではなくて、対象の側のリンゴをみんなで見てみて判断するものだ。同じように、あるアニメがクソだと言われる時、その謂いが正しいかどうかの判定は、視聴主体の側がアニメに対して覚える快不快ではなく、そのアニメの内容によってなされなければいけない。クソという言葉がそれ自体客観性を要求するとはこのような意味だ。

だから、ある作品をクソと断じる時、その根拠は個人的な不快感であってはならないのである。あるアニメをクソアニメと呼ぶことが正当化されうるのは、その作品自体に内在する欠陥が同時に指摘されている場合のみだ。

DQNを正当化しているアニメを、DQNが嫌いであるということを根拠に叩くのは不当だ

ここまで長々と書いてきたのは次のように言うためだ。すなわち、アニメにおいてDQNやリア充が正当化されるたびに吹きあがる人々がいるわけだが、そのような人々はDQNやリア充を叩くべきなのであって、アニメそれ自体を叩くべきではない。

昨クールのことだが、革命機ヴァルヴレイヴというアニメがあり、俺などはわりかし熱心にこのアニメの信者をやっていたわけだが、まさに「DQNが正当化されてて不快だからクソ」式に叩かれていた。で、ここは革命機ヴァルヴレイヴの信者ブログになる予定もあるから、そのような言説に対しては、拒否だけでなく積極的反批判をも振り向けていく。そのような次第で書かれたのがこの記事だ。革命機ヴァルヴレイヴは実際ある面DQNを正当化しもしているのだが、そのことで以てクソアニメと断じられるのは不当である。理由についてはすでに論じたところから明らかなはずだ。

最後に但し書き。次のような場合には、DQNやリア充が出てきて、作中で正当化されるということをクソと言って叩いてもよい。すなわち、DQNが正当化されるということが、明らかに作品の狙いの実現に寄与していない場合である。その場合、DQNが正当化されているというそのことが、アニメの側の客観的クソさを構成していることになるのだから、事態はクソと名指されるに値する。無論革命機ヴァルヴレイヴはこのケースに当たらないと俺は思うが、そのような作品も世の中にはあるのかもしれない。

付論

さて、以上「不快の感情を根拠にアニメをクソと断じることは不当」と論じてきたが、論証の中で「対象に関する評価語の真偽・適不適は対象の性質によって判断される」という命題を、自明のものとして根拠に用いた。

だがこの点に関しては、「美的性質などというものは客観的に測定することがまったく不可能なのだから、美に関する評価語に関してのみは、適用の根拠は主観的であってよい」という反対論を立てる余地がある。これについてはどう考えるべきだろうか?

確かに、こと美的性質というものに限っては、対象の側からの接近というのはなかなか難しく、数値化に至ってはほとんど不可能な感がある。だが、だからといって客観的美的性質がまったく存在しないとしてしまうと、より巨大な問題が即座に生じるはずだ。例えば、現実に多くの人は「これは名画だ」とか「この彫刻は美しくない」とかいう点においてある程度一致している。美的性質の客観性という考えを取り去ってしまうと、このある程度の一致を説明することはほとんど不可能となってしまうだろう。

それゆれ、外界について健康な見方を維持するためには、やはり、「これこれは美しい」という判断を「これこれはこれこれに内在するこれこれの性質によって美しい」と解する他ないと思われる。すると再び言えることは、「クソ」という評価語の使用根拠は、DQNに対する俺やあなたの嫌悪感ではなくて、作品それ自体の側に求められねばならないということだ。

……われながら正しいことを書いたと思うのである。正しすぎてなにも言ってないとも思う。DQNを正当化するアニメを、そのことで以て叩くのはダメだが嫌うのは構わないという立場だからだ。本音を言えば嫌うことだって不生産的でイルなのである。次はそこまで言いたい。