挙証責任はどっちにあるのか
次のような会話を考えることができる。
「このアニメはクソだよ」
「何を以てクソと言うんだ? 証拠を挙げろよ」
あるいは次のような会話を考えることもできる。
「このアニメは神だよ」
「何を以て神と言うんだ? 証拠を挙げろよ」
両方の場合で議論の構造はまったくパラレルであるように思われる。で、実際パラレルだ。パラレルに不毛である。
この二つの議論の型の内、前者が不当であることは以前に言った(このエントリ)。その時俺は後者の立場に立った物言いをしていたが、思えばそれは問題の全体像に無自覚に過ぎた。あるアニメを論証抜きでクソと断じることが不当ならば、あるアニメを論証抜きで神と称えることも等しく不当だ。
すると今や次のどちらかが言われなければならない。つまり、人は十分な作品分析なしにはクソとも神とも言ってはならないということか、あるいは、クソとか神とか、もっと適当に言っていいってことかだ。正しいのは前者の立場だということは先のエントリの理路で依然言えるが、それは厳格すぎる気もするのである。
以下次号。