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世界を暴く

私がモテないのはどう考えても私が悪い

非リアの問題は非モテの問題であるという悪質なデタラメ

非モテという問題があるらしい。モテたいけどモテなくて、モテないのはつらくて、つらいのは問題だという話である。ここに、本当はモテたいくせに普段は「いや俺モテたくねーし、全然モテたくねーし」みたいな態度を取ってやがるといういわゆる酸っぱい葡萄問題が、オタク等々のアイデンティティポリティクスの話に絡んで付け加わったりもする。で、酸っぱい葡萄問題みたいなサブブランチは他にもたくさんあって、その枝の全体がいわゆる非モテの問題を形作ってるようである。

そして、今見た形の問題群は、最近では非リアという別の問題に絡め合わされて論じられることが非常に多い。非リアはモテない。かつ非リアは問題的だ。であるからにはモテないけどモテないという問題が非リアの問題であるに違いなかろうというわけだ。なるほどなるほど。見事なまでに誤った立論だ。

非リアの問題は非モテではない。非リアにとって、本当の問いは「いかに嫌われるか」、つまり「いかにモテなくなるか」ということである。

この主張は「非リアはあんまモテたいと思ってない」という弱いものではない。「非リアは嫌われることについて積極的である、モテなくなることについて積極的である」という強いものだ。どうしてそうなるか? 非リアの概念そのものに、そう考えさせるところがあるからである。

繰り返そう。非リアの問題は非モテではない。非リアの本当の問題は、いかにモテずに済ますかということだ。このことは非リアの概念そのものを検討してみるだけで明らかである。かくして目標は定まった。われわれは非リア概念の検討から出発し、非リアと非モテの偽りの二重帝国を徹底的に粉砕してやるのだ。

非リアの概念について

非リアとは何か。まずもってはリアルがしょぼいということだ。つまり、例えば「ちょっくら飲み行こうぜ」と急に誘われた時、曖昧なことを言って断るような人間が非リアである。

しかし、リアルがしょぼいということがすなわち非リアを構成するわけではない。例えば暴走族の総長が事故って長期入院しているとしよう。彼は非リアと呼ばれるだろうか? われわれの言語的直観はそれを許さない。これはなぜかと言うに、非リアという語が民間心理学・素朴心理学の語彙だからだ。事故った総長は、リアルにはぶいぶい言わせてないわけだが、心の中ではリアルにぶいぶい言わせたがっているはずなのである。われわれはこのうちの心の方に注目して、彼を非リアではないと診断するのである。非リアとはしょぼいリアルそのものでなく、しょぼいリアルを構成することしかできない心のことを指す語なのだ。

このことに注目することで、われわれはより直観に適った非リアの概念を手に入れることができる。暴走族の総長の魂はアクティヴハートであって非リアではない。非リアとは、総長とは違うような、もっと何をも行わぬ惰弱な魂のことを指示するはずだ。

ではその惰弱な魂の内容は何か? これは要するに、飲み会忌避野郎の魂と哀れなる総長の魂とを隔てているものは何かという問いである。すると答えはほとんど明らかだ。リアルに関わってゆく意欲を欠く魂が非リアと呼ばれるのだ。

先に進む前に今の話を補強する。今の措定には一足飛びなところがあるからだ。すなわち、飲み会忌避野郎は、リアルに関する意欲が薄いからということでなく、リアルに対する激しい拒絶を意欲しているからこそ飲み会を厭うのかもしれない。なるほどこれは論理的には可能な選択肢だ。だが思うのだが、そのような戦闘的反逆者は、果たして「非」リアルと呼ばれるに値するだろうか? むしろ彼は「反」リアルと呼ばれるべきではないだろうか? 本稿の立場は、このような側、つまり非リアとは別に反リアなるものを措定しようとする側にある。その上で非リアとは、リアルを烈しく拒絶する魂ではなしに、リアルに関わって行けぬほど惰弱な魂を指すと規約するのだ。というのもこういう構成を取ることには若干の説明上の利点があるはずだからなのだが、その説明はまた後日。

リアルに関わってゆく意欲を欠く魂すなわち非リア、という、第一次的な定義は、リアルの拒絶を烈しく意欲する魂すなわち反リアと対置されることで、次のような二次的定義を獲得する。志向性を相対的に欠いた魂が非リアである、というものだ。何かに向かうということを意欲する・何かを志すということを意欲する経験が全般的に乏しい、通俗的に言えばあまりエネルギッシュでない人間が、今や非リアと呼ばれることになる。より積極的に表現すれば、「志向性の欠けた心的状態」、つまり「漠然とした不安」ないし「だるい」という感情が、非リアという魂の原風景を構成するのだ。

魂のやりくり上手

非リアの基底感情はだるいということだ。そのことから、非リアにとっての人生の問題とは何かが浮かび上がる。だるいリアルとどう付き合うか、これが問題だ。この問題こそが非リアという存在のゼロ地点である。

で、実際のところ、だるいリアルとどう付き合うんだ? 鍵は魂のやりくりにある。

非リアだって人間だ、しょぼいけどリアルを持ってる。つまり、月に一度くらい、ちょっくら遊びに行ってウェーイってしたりもするのである。だがそれを毎日というのは耐えられない。このような設定のもとでは、ある非リア君のウェーイの限度は一回/月だ。これが彼のリアルであり、だるいということである。

するとこの点で、次のような問題が生じることになる。月に一度のウェーイを、親友との交友に充てるべきだろうか、嫌いなやつの接待に充てるべきだろうか? 無論、ぜひとも前者なのである。月に一度、年に十二度しかない極限のリアルを、どうでもいいやつに無駄撃ちなどしてやるものか。かくして非リアにとっての重大事は、自らの繊細な魂をどうやりくりするかということとなる。

これが非リアの運命だ。非リアは皆だるさという原罪を背負っている。その罪は、彼彼女らに、社交のジャンクションにおいて、魂をやりくりすることを強いるのだ。この強制は、毎日ウェーイできるような強靭な魂を持った人間にはほとんど無縁のものであって、非リアに特有の運命である。

話を先に進めよう。今やわれわれは結論に向かって突進しつつある。問題は魂のやりくりであり、その具体的方策は社交のジャンクションにおける約束調整だ。で、これは常識的真理であるが、約束を断ることにも人は結構エネルギーを使うのである。すると非リアは、始終約束を断って魂を消尽しつくすうちに人生を終えるでなければ、世界と接する戦線を可能な限り引き絞り、魂の戦力を集中して局所優勢を狙うしかない。要するに、どーでもいいやつらに予め嫌われに行かなければならない。人間関係の節約が非リアの原理なんだ。

実際、このことをわれわれは経験によって半ば知っている。というのも、ある非リアが居るとして、そいつがなんか不遜だということがあるわけだ。そいつはお仲間君たち(こいつらには俺も、ニコニコの神動画教えてもらったりして世話になってる)とつるまないばかりか、俺たちエリートリア充様に蔑みの色を混ぜた視線を投げたりもしてきやがる。で、時にはそれが行きすぎてそういう非リア君がイジメ潰されたりすることもあるみたいだが、この文脈ではそれはどうでもよく、ついでに言うと俺が何者かってこともどうでもよく*1、そもそも人に好かれたがってない、魂をケチっている人間ってのが居るということが押さえられるべきである。

ところで、人が最も執拗に約束を請求する場面とは何であろうか? 答え、恋愛において。これは代表的模範解答であるように思われる。だからこそ言えるのは、非リアの節約原理は、モテを忌避することにこそ最大限に振り向けられるということだ。非リアとは、いかにモテずに済ますかということに最大限の関心を払う魂なのだ。

ありうべき反論に対する予めの応答

以上で、冒頭で予告したことはすべて示された。すなわち、非リアとは概念的に言ってこれこれの存在だということが示され(非リアとはだるさに彩られた意欲せぬ魂だ)、そのことからの帰結として、非リアは極力モテないよう積極的に努力するということが示された。以下では、ありうべき反対論から、これらの主張を予め防御する作業につとめることにする。

まず予想される反論は、現に非リアの大勢はモテようとしてるじゃん! というものだ。なるほどその通りだ。だがこれに対しては比較的容易に再反論が可能である。

注目すべきは、観念としてではなく現実に存在する非リアたちは、非リアである以前に人間であるということである。で、人間はもちろん、大体においてモテたいのだ。非リアが現にモテたがっているという事実は、このことで以てわれわれの説と整合的に説明可能である。

われわれに言わせれば、強く強くモテたがってる自称非リアは、結局、あまりに人間的に過ぎるのであって、十分に深く非リアという現実を生きていないのである。あるいは何か別の現実を、非リアという現実と取り違えているのだ。

予想される第二の反論は、非リア=非モテ同君連合論者の側からの、「お前は非リアって概念を自分勝手に定義し過ぎだろ」というものである。この手の疑義に対するわれわれの答えは次の反問だ。そのように言う君たちこそ、「リアル」という言葉の意味を、自分都合でねじ曲げてるんじゃないか?

リアルというのは現実のことだ。現実とは、それだけ取ってみればモテとは何ら関係のない言葉である。われわれは、そのリアルという言葉の意義用法に即して、非リアという語を定義した。これに対して非リアと非モテとを連接させたがる人々は、恋愛ないしモテということがわれわれのリアルにとって大問題だということを論拠に、非リアすなわち非モテ非モテすなわち非リアと論じるのだろう。だがその理路こそは俺の思う壺だ。そこで言われるのは、非リアが定義的に非モテを含意するということでなくて、モテがリアルに重大事ならば非リアは非モテと重なるというだけのことだ。モテの概念を入れずしては非リアを定義すること不可能、ということについての論証としては、彼らの議論は成立していない。

逆に、われわれの側からは、非リア=非モテ合邦論者に対して次の攻撃を行うことができる。すなわち、非リアが厳密に非モテと重なるのであれば、そもそも独立の賭金として「リアル」なるものを呼び出す必要はないはずだ。非リアと非モテは、重なりつつもズレているからこそそれぞれ問われるに値する語彙たり得るのである(これがわれわれの立場だ。われわれは、現象的には、非リアが非モテを兼ね得ることは認めるのである。それを本質論・定義論に持ち込むなと主張しているのだ)。非リア=非モテアウスグライヒ論者は、自らの主張を維持しようとするなら、明らかに存在する反例*2を全滅させるか、あるいは説明上意味もないのに「リアル」などという言葉を召喚しているのだと認めるか、二つに一つを選ぶしかない。このうち前者はたぶん不可能だし後者は定義語汚染的な扇動家へと堕する第一歩である。要するにわれわれの考えでは、非リアが定義上非モテを含意するという発想は、まったく破綻したものである*3

だが、何をなすべきか?

以上がわれわれの提案する非リアについての一つの考え方だ。なるほどそうであったか。すると、次の問いが引き続く。ではその上で、非リアは何をなすべきか?

状況は出発点よりはるかに絶望的だ。非リアとは非モテどころではない魂の地獄である。一つ安心できるのは、人間であることに留まり続ければその分だけ非リアでなくなれるということが示唆されていることだが、人間たることは俺の欲する解決ではない(「人間本性」をその基礎に据える倫理ほど嫌なものはない──これについては別のところでいずれ書く)。別の救済策が模索されなければならない。

これについては希望を持つべき要素が一つあり、絶望すべき要素が一つある。まず希望を持つべきは何に関してかといえば、救済策の内容は既に定まっているということだ。で、絶望すべきは、その内容はこの世に決して存在しないということだ。つまり、つまり、つまり、非リアはどこからか降ってくる美少女に導かれて非リアを脱出することができるが、美少女とは定義上非リアのもとには降ってこない存在者なのである。(続く)

*1:もちろんさらにどうでもいいのは、ここでの「俺」を、書き手の俺と同一視したりしなかったりすることだ。

*2:一つにはリアルが充実してるのにモテてない人間。例えば仕事で成功し、私生活も楽しそうだが、セクマイであったりそもそも他人に興味がなかったり等々の理由でモテの充足を果たしてないケース。またもう一つにはモテてるのにリアルが充実してない人間。例えば彼女は居て、超ラブラブなんだが、それ以外の社交がほぼ絶無であるケース。実際あるっしょ?

*3:それにしても、われわれの非リア定義がまったく自分勝手だという敵からの批判は残り続けるかもしれない。だが、そもそも「非リア」なる語に関して、これこそが正しい、唯一絶対の、客観的な定義ですというものを与えることができるのか? むりむりむりのかたつむりだろう。すると、そのような言葉に対してわれわれが取り得る対応というのは、一つには現実の語用をくまなく収集して「現在までのところ比較的是認されてる」その語の是認された定義を構築するということであり、もう一つには、その語の他概念との関わりを検討することで、その語が持ち得るべき意味の範囲を外側から画定していくということである。で、われわれは、暴走族の総長は非リアじゃないだろ常考、というように第一の方策を用いつつ、「リアル」が賭金に上せられているからにはこの語の意味はこうでなければならない式に第二の方策も動員して、非リアの定義を行ってきたのである。この方法論についてわれわれは実際自信がないが(一体、このように構築された「非リア」語の身分は――まったくの日常語でも、厳密に規約的に構成された概念語でもないとすれば――どんなものだ?)、他にいい方法も思いつかないので、識者からの批判を待ちつつここに晒してしまうわけである。