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世界を暴く

艦隊これくしょんが面白い

艦隊これくしょんが面白い

艦これが面白い。キービジュが正直パッとしなかったので敬遠していたが、はじめてみたら案外可愛い娘が多いものだ。予想外だったのは声とセリフの破壊力で、これで転んであっさり陽炎ちゃんきゃわわとか言い出してる自分には自分でびっくりだ。今は愛宕さんに引率させて古鷹級二隻を育ててる。

とはいえこのゲーム、何より面白いのはスレ巡回・wiki巡りと、あとついでに言えばpixivとかでの絵漁りである。要するにゲーム自体よりソーシャル要素が面白い。このゲームはいわゆるソシャゲ的な要素は現状案外乏しいが、ゲームそれ自体というよりムーヴメントというかライフスタイル(生活の合間に艦これをするのではなく、艦これの合間に生活するようになるのだ)を売り物にしてるという点ではやはり典型的にソシャゲーだ。

だから艦これがクールだと言われる時、そこで言われているのは八割までは艦これそれ自体というより艦これをやってる俺らがクールだという話に過ぎない(言い忘れたが俺はこういうところにも臭みを感じてこのゲームを敬遠してたんだった)。俺はこのことに特に反対はしない。

だがしかし、重要なのは残り二割の差別化要因だ。昨今では幾百幾千のソシャゲーが生まれては死んでゆくわけだが、その中でなぜひとり艦これだけがこれほどまでにキているのだろうか? ソシャゲー一般に謎はほとんどないが、艦これにはどこかしら不思議なところが残っていそうだ。

ミリタリー? そうではなく

すぐに思いつく答えは美少女×ミリタリーという着眼点のよさだ。最近だと例えばガルパンがヒットしてて、ちょっと前だとストパンがヒットしてる。同じように、美少女でミリタリーだから艦これも売れたと考えられそうだ。

だがこれは嘘だ。美少女もミリタリーも両方揃えて、しかし売れなかったというコンテンツは山ほどある。スカイガールズとか、ソ・ラ・ノ・ヲ・トとか、最近だとうぽってなどがそうだった。ストパン・ガルパンと同じ理屈で艦これが売れたにせよ、そこで働いているのは美少女×ミリタリーという要素ではない。美少女プラスミリタリープラスさらなる何かがなければならないのだ。

思うにその何かとは歴史である。物語性と言ってもいい。例えば可愛い女の子がいて、戦車に乗って戦うとして、その戦車は単なる抽象的な主力戦車ではダメなのだ。乗りまわされるのは、黄色の場合にはアラスで苦戦し、ユーゴスラビアを十日で懲罰し、その間に乗員たちの帽子がベレーから略帽に変わったりもし、砂漠では包囲し包囲され、東では寒さと敵の装甲に苦労し、シシリーではケッセルリンクに無残にも遺棄され、西ではヤーボに追い回されるという、そういう物語性を持った戦車でなければならないのだ。なぜか? われわれは抽象的な戦車には易々と感動しないがそのような戦車には簡単に感動するからだ。物語性には魅力があり、歴史はそれを与えてくれる。

物語性の魅力というものは現実性に関わっている。現実性とはしっくりくるということだ。人はいつだって、できることなら極限状況における極限の人間性というものに触れ、人間の真実についての感触を得たいと思っている。つまり現実性に打ちのめされて、目から鱗を落としたがっている。しっくりとはそういうことだ。物語作家はいつの時代もこれを捉えようと機を窺っている。

だが現代とは抽象的な美少女が抽象的な学園で抽象的に恋愛する時代だ。極限状況における人間の真実など望むべくもない。物語は衰退しました。

そこで、歴史であり、実在の兵器なのである。兵器がかく在りかく戦ったという履歴は、圧倒的な現実性の手触りを、つまり、奇妙にしっくりくる感じをわれわれに与えてくれるのだ*1ストパン・ガルパンはそれゆえにヒットし(エンジンオイルの匂いさえ漂ってきそうな両作品の作風を思い返そう)、そしてまた艦これもそれゆえにヒットしつつあるのである。失われた現実性の回復要求が実在の兵器において果たされる。これが鍵なのだ。

ミニチュアの歴史のそのまたカタログ

といって、艦これやガルパンで何かご大層な戦史物語が展開されているかと思うと問題の本質を取り逃がす。戦史モノという観点から要求されるのは、むしろWikipediaレベルのちょっとイイ話だ。それ以上であってはならない。史実要素はある程度しょぼくなければならないのだ。われわれは物語に飢えてはいるが、それ以上に物語に飽食しきっているからである。

物語の没落が嘆かれて久しい。みな口を開けば萌えだけの美少女アニメはもうたくさんだと言う。じゃあそういう人々は何を見ているのかと言うと、80年代とかのクラシックを見たりはせずに、文句を言いながら結局美少女アニメを見ているである。現代人の大勢は、いまさら4クール50話もかけて一つの物語に付き合ってなどいられないのだ。われわれはすっかり忙しく、すっかり刹那的になってしまった。時々思い出したように重厚長大な物語が恋しくなるけど、実際そんなものに付き合っていられるほど暇ではないのである。物語にはもう食傷している。

だからこそ歴史、それもWikipedia的な歴史なのだ。ただの物語じゃない。薄っぺらな歴史的物語こそが求められている*2。われわれが求めているのは物語ではなくて、インスタントに手に入る納得感の方だからだ。そしてWikipediaはコンビニエンスの極北なのである。確かに教養小説の上中下巻1000ページを読み通せば目の前には圧倒的な現実性が立ち上がる。でもそういうのは飽きたし、だるい。それより、解説付きの白黒写真をちらと見た方がずっと手っ取り早い。

われわれは歴史に勝手に思いを馳せ、手軽に人間的現実の一端に触れたかのように思い、ただの萌え萌えしたものよりずっとスペシャルな何かに触れたぞという満足感を手に、鷹揚に金を払うのである。かくしてストパン・ガルパン・艦これは売れていく。ミリタリー要素ゆえにでなく、Wikipedia的歴史を媒介にした、現実的要素ゆえに売れていく。

取るに足らない取るに足るものだけがバズるに足る

そしてまたこのことは、冒頭に艦これがヒットしてる理由の八割とまで言った、ソーシャルなバズりにも関係している。

一方で抽象的なものは決してバズらない。バズるのはいつも、あれとか、これとか、具体的な手触りを伴って一発で言い当てられるようなものだ。例えばエロゲがバズらなくなって久しいが、それもこれも処女と童貞が初交合でイキまくり中出しセックスみたいな、雲をも掴むような手触りのなさがいけないのである。

だが他方で、バズるものはインスタントでもなければならない。理由については先に言ったことと同じだ。われわれは話題にキャッチアップするためだけに1時間ドラマを見るのを今やだるいと思う。それでTVドラマは衰退した。それよりは20数分のアニメの方がラクだし、さらに言えば数分の動画の方がラクなのである。それでニコニコ動画は隆盛した。この流れは、究極的には、ワンフレーズおさえればOKという地点にまで進んで行くだろう。家畜の安寧とだけ合い言葉のように唱えて、なんか一体感に浸るというのが未来のわれわれだ。それは、実際素晴らしいかはさておき、確かに滅茶苦茶イージーでコスパがいい。

この相矛盾する二つの要求を、正確に両獲りしていく当代最強のソリューションが、そして、Wikipedia的豆知識的大会なのである。具体的には歴史的な小ネタとかを挟むわけだ。これは学習の手間がほぼゼロなので非常に便利である。日本人は歴史についてはわりとインテリなのだ。戦国BASARAだったら、例えば浅井長政とかそういう脇寄りのキャラでも、名前くらいは結構みんな知ってるのである。学習時間ゼロでわいわい盛り上がることができる。もちろん長政が具体的に何者なのか知らないとすぐに限界が来るわけだが、その点世の中はうまくできてて、歴史オタクとかいうやつらがいてくれるのだ。歴史オタクは、長政どころじゃない、超知ってる、超超色々知ってるのだ。われわれはキャラスレとかでわいわい楽しむ中で、そいつらからついでに色々教えてもらい、新たな会話の材料にする。さらに言えば、この点でも世の中はうまくできてるわけだが、歴史オタクという人種は大抵教えたがりの寂しがり屋なので、こっちが何をせずともべらべらべらべら色々喋ってくれるのである。われわれエリートリア充は、何を調べることもなく、楽しい歴史的現実的お喋りの輪に入っていけるというわけだ。すばらしい新世界へようこそ。

艦隊これくしょんは、このような未来社会へとわれわれを嚮導する急先鋒なのである。

名前と個体性

だがここまでの話は艦これ論としてまだ不十分だ。以上で与えられたのは、まさに二次大戦の史実を取り扱った艦これというゲームが、他のソシャゲーを排してヒットしていることについての説明だ。これは次の意味で十分でない。すなわち、なぜパンツァーこれくしょんでもファイターこれくしょんでもなく、艦隊これくしょんがキてるのかについての説明がついてない。

まあこの点については説明など付けれるわけがないというのが正解といえば正解だ。艦これは単にたまたま艦隊なのである。実際これが機甲師団ゲーでも案外ヒットしたんじゃないのくらいのことは思う。ほら、World of Tanksとかもあるわけだし。

でも、そういう風にあきらめちゃだめでしょ、という気分も、このゲームをプレイしてると不思議としてくるのである。艦これというコンテンツには、やっぱり艦船じゃなきゃ成り立たないようなところがあるような気がするのだ。これは一体どういうことだろう?

検証のための反実仮想を設定しよう。例えば、艦これが機甲師団運営ゲーだったらどうなるだろうか。司令官は燃料・砲弾・鉄鋼・レアメタルをやりくりしながら、第一連隊にケーニヒスティーゲルを配備し、第二連隊のパンテルG型を定数充足するまで後方に下がらせ、第三連隊のIV号H型をメーベルワーゲンに改造する。で、上の方のタブから任務一覧を呼び出し、「キュストリン解囲」とかにチェックを入れて、第一連隊をオーデル河畔へと出撃させるのである。たぶん連隊の戦車は溶ける。どんどん溶ける。その結果、オーデル河畔での赤軍第一白ロシア方面軍の圧力は、ちょっとは弱まるかもしれないし、弱まらないかもしれない。それを眺めつつ司令官はまたケーニヒスティーゲルを補充する……。

これは、艦これであって艦これではないのである。何が違うのか。この、いわばパンこれには、固有名が欠けているのだ。ケーニヒスティーゲルを補充するというのはまだまだ抽象的である。艦船一隻一隻にあるような、名前と固有の艦歴が、戦車には(少なくとも師団レベルになると)ない。現実性を感じ取るというわれわれの目的からすれば、重要なのはまさに、名前と結び付けられた固有の艦歴なのだ*3

これが、艦これが艦これであって、パンこれでもファイこれでもない理由である。艦船には一隻一隻名前があり歴史があり生死がある。彼女たちには個体性があるのだ。そしてこの個体性が、手軽にドラマを作る。艦これというゲームのゲーム部分は、艦娘たちが撃ったり撃たれたりするのをただ眺めるだけなのだが、艦娘たちの個体性ゆえに、オートマチックなその過程さえなかなか楽しく見えてくるのだ。かけがえのないこの艦娘が戦っているまさしくそのことが、目盛りが減少したりしなかったりという単調な過程に、それなりに感動的なドラマを与えてくれるのである。

艦これの運営は以上の構造にたぶん自覚的である。例えば同一の艦隊に同じ艦を二隻配属しようとするとシステムに弾かれる。プログラムの手間を取ってまで重複を禁じたこの措置はたぶん大正解だ。長門を六隻並べた艦隊などには何らの物語性も宿らないからである。この長門は、仮にそれが複数ある内の単なる一隻であったとしても、長門A、長門B、長門Cではなく、他ならぬこの長門だという感じをこのシステムにおいて受け取る。俺はまだ辿りつけていないんだが、「改造」とかを施すことになれば、この感じはいっそう強く感覚されることになるだろう。

そしてまた艦これには「轟沈」がある。一度沈んだ艦は永久に失われる。救済措置はない。この世界にポケモンセンターはないんだ。このことが、個々の艦娘たちの個体性をさらに際立たせる。長年連れ添ったあの艦、他ならぬあの艦が永久に失われるという痛々しさは、彼女たちの個体性の値打ちを逆に釣り上げるのだ。いつだったか平野耕太が加賀を失って発狂していたが、それほどの力がこのシステムにはあるのである。

で、繰り返して言うが運営はこのような個体性商売をまったく戦略的に仕掛けてきているのだ。恐ろしいやつらである。いよいよ実弾ブッ込んで、あの娘を護ってやらにゃあなぁ! という気がしてくるわけだ。要するにこれが、艦これのまさしく艦これであるところの特徴であり、そしてまた艦これがキてる最後にして最凶の要因なのだ。

俺はまだまだこの恐ろしいゲームを続けるつもりである。

補足

本編で書き落したので最後にちょっとだけ補足。

このエントリでは、歴史的事物に感情移入して何か生々しい感じを調達することが、例えば教養小説とかに象徴されるようないわゆる物語に触れることと機能的に等価だと書いた。これは、一面そうだからそう書いたのである。でも、でもね、他面、手軽に感傷に浸ることと物語にどっぷり浸かることとが、同じなわけはないよね。

どこが違うんだろう? 俺は、他者性・外部性の有無って点が鍵だと思う。つまり大部の小説を読めば、がつんと殴られたような気分がする。陳腐な言い方をすれば、自分の中の何かが変わるのだ。Wikipediaを眺めてるだけじゃそうはいかない。あれは結局、安全圏から世界を覗き見ているだけだという限界がある。骨太の物語には肝心のところで敵わない。

だから、物語の復権という企みも、まったく無謀なわけでもないんじゃないかな。

まー俺みたいなエリートリア充に言わせれば、日がな教養小説を読んで世界の真実に触れたとか騒いでるヤツらも、それはそれでキモいのである。だから俺は実在との繋留は艦これで手軽に済ませつつ、明日のデートプランを練る方を選ぶとするぜ。

*1:無論、現実性が感じられる(しっくりくる)ということと、実際の歴史の進行がどうであったかということの間にはかなりのズレがあるという例の問題の兆しもここには見えるわけだが、差し当たっての議論には関係ない。

*2:これは別にWikipediaの知識がしょぼいということではない。実際Wikipediaの特にミリタリー項目なんかは、知識量的には結構なものだ。ただし、統一的な理論的視座を伴ってないから、現実把握ためにはまったく役立たないのである。そのような意味で薄っぺらだと言うのだ。……蛇足ながらこの点について書き足せば、Wikipediaの歴史とか軍事の項目は、過剰な現実性と乏しい現実把握とのどぎついコントラストによって特徴づけられると思う。歴史上のある国家のWikipediaページを見れば、なるほどこの国家はこのように興隆しこのように繁栄しこのように衰退したのかという感覚が、物にもよるが圧倒的な現実性を伴って立ち現われる。だがそのことはわれわれに、国家とは何であるかとか、われわれは今後どのように政治に関与していくべきかとかいう実践的な現実把握を、何ら(!)与えない。この悲喜劇的なズレには誰しも心当たりがあることと思う。で、それを俺は、Wikipediaには理論的背景がないせいだとして説明し、またそれこそが歴史とか軍事とかについてのWikipediaの特徴だと言いたいのだ。……まあ、おまそうではあるが、そんなに変なことも言ってはいないんじゃないか? もっとうまい言い方があったら聞かせてくれ。

*3:え、じゃあストパンやガルパンには個体性が無いのかだって? そうではない。あれらの作品では、固有の名を持つキャラの立った美少女たちが、ストライカーユニットや戦車の外に存在して、それらを個体化しているわけだ。このことは逆説的に、航空機や戦車はそれ自体では個体性を持たないということを示してて、むしろ俺の本論の補強材料である。