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世界を暴く

まどかマギカの逆説的反革命主義

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個人道徳学説のバトルロワイヤルとしてのまどかマギカと、その暫定チャンピオンとしての功利主義キュゥべえ

まどかマギカというのは、色々な読み込みを施すことができてそれゆえ優れた作品なわけだが、個人道徳(行為準則)のあり方に関するいくつかのスケッチを提出した作品と読むこともできる。いかに生きるべきかについての指針が色々試されて、最後にその上での一定の答えが示されるのだ。

この主題に関し、まどマギ的には問題は次のようなものだ。すなわち、今、幸福の絶対量は動かし難く一定で、Aを生かせばBが死に、Bを生かせばAが死に、AもBも助ければ魔法少女が魔女になるとする。この時、いかに行為すべきか?

この問題に対し、さやかは利他主義的自己犠牲という解決を試みて敗北し、杏子は利己主義ないし利近主義という解決を試みて敗北し、ほむらは義務論というか原理主義的な解決を試みてやはり勝利できずにいる。何に打ち勝てず敗北しているのかというと、幸福のゼロサム性に対してであり、その基礎の上に立つキュゥべえ功利主義に対してである。まどマギという作品は、われわれの関心からは、いかにすれば功利主義より望ましい行為準則を作れるかという探求の営みとして読み解ける。

キュゥべえ功利主義というのは少々捻じれているが(何しろ幸福の総量が一定なのだから、幸福の最大化を目標とするわれら人間の功利主義などキュゥべえ的世界観ではハナから成立しない)、そこにおいて示されるところの行為準則がある種の功利性原理であることには変わりがない。すなわち、キュゥべえによれば、エネルギーの総量も感情的資源の総量も一定であるこの宇宙において、唯一、幸福の分配をある仕方で行えば、エネルギーを追加的に得ることが出来、つまりおトクであって、宇宙内存在として人間はこのおトクさを追求するよう行為すべきなのだそうだ。若干の問題点は感じられる*1が、まあ、功利主義の一変種と、言って言えないこともないはずである。少なくとも帰結主義の枠内にこれは収まっている。

で、キュゥべえはその命法を繰り返す。すなわち、どうせ何をしたって幸福の総量は変わらないのだから、せっかくなら宇宙のためになるよう行為して死ねと冷酷にも言い放つ。それに逆らって行為する魔法少女たちはそして、逆らうことで事態をかえって悪化させる*2功利主義は、残酷だがそれでも一番ましな行為準則なのだろうか?

ところで、少し話はそれるが、マミさんという人物はこの主題系に対してどのような位置を占めるだろうか? マミさんの立場は以上の見取り図の外側にある。哲学史的には、たぶんストア派だかエピクロス派だかの立場として括れるだろう。つまり、毎日をまじめに生きれば幸福の総量を嵩増しできて、道徳的ジレンマも解消できるという態度である。個人的には大好きな立場だ。だが残念ながらこの立場は劇中、世界のルールに非情にもねじ伏せられてしまう。抗議したいところだが、これは別に不当なルール設定でも何でもなくて、現代正義論の出発点を再確認しているだけである。実際われわれだって、貧困問題を扱うニュースで「まあ、まじめに生きてりゃそれ自体がハッピーっしょ」などと言うコメンテーターが出てきたら激怒するわけである。ゼロサム的とまでは行かないにせよ、ともかくもディストリビューションは正義に関する大問題で、無視することなどありえないというのがわれわれの生の前提だ。まどかマギカはこの前提を、古代の隠遁的哲人たるマミさんの劇的抹殺というショックで以て、鮮やかな形で提示してくれる。

まどかの最悪の回答:方法的問題または千年王国主義の倒錯

だがまどマギが行為における正義の教科書として役に立つのは残念ながらここまでだ。というのも、キュゥべえをやっつけて登場する神としてのまどかが、ちょっと見ただけでザコすぎるし、ザコくないとすれば最悪である。

まどかの言い分は畢竟すればこうだ。「キュゥべえのやり方はAだ。Aは直観的に言って望ましくない。ところでBはAではない。だからBは望ましい」。

この論法はまどマギの脚本を書いた虚淵の近作、翠星のガルガンティアでも繰り返されている(ガルガンティアはそれゆえ思想的に浅薄である)。あとこの前観たネオリベ批判映画でも使ってたから、まあ伝統的なアジり方なのかもしれない。だが明らかに欠陥がある。というのも、BがAより悪かったらどうするんだ? この点について、Bに対する擁護論証を伴わなければ、この手の主張は主張として成立しないはずだ*3

まどマギはこの点ではガルガンティアよりまだしもマシかもしれない。まどかの新秩序Bは、キュゥべえの旧秩序Aより、少しはマシになったけど欠点もあるね、という話だからだ(魔獣とかいうやつが相も変わらず残るのである)。だが「少しはマシになった」というのは、依然として正当化論証を伴わなければ内実のない話だ。論法に内在する欠陥は残存する。

要するにまどマギは千年王国運動なのである。現体制はこんなにつらい。つらいからには救済は約束されている。この約束を確信するため共に祈り、悔い改めましょう。そして確信があるからには、もう何も、死すらも怖くない……。

この立場に対する反論は不要だと思う。われわれは単にこれを棄却する。

まどかの最悪の回答:内容的問題またはヒューマニズム反革命的性格

とはいえまどマギの思想性を救おうとする者には、いまだ抗弁の余地が残されている。というのも、まどかの創る新秩序Bが、キュゥべえの拠って立つAよりも、確かによりよい原理に基づいていると言える根拠を作中から拾ってくればいいからである。だが俺の見立てではこの作品中、根拠となるのは次の事実のみだ。そしてそれを俺は最悪だと思う。

……はっきり言うね。まどかは体制を、人間性という原理に基づいて変革する。まどかの革命を正当化する描写は次のようなものでしかないからだ。「キュゥべえが拠って立ってた状態Aには人間味が感じられなかった。だから私は世界を革命することにした」。要するに人間性が革命の大義を構成している。俺はこれを最悪だと思う。人間性への信頼によって革命を基礎づけるまどか=虚淵の政治哲学は受け入れられない。

人間性は素晴らしい。戦争や災害で地域がまったくの無秩序状態に陥っても、人々は案外、ホッブズが仮構したような万人の万人に対する闘争には走らないものだ。人間本性ってものがあり、協力が成り立つのである。共同体や結社が打ち立てられ、人々は互いに助け合って今日を生き明日を仰いで行く。人間性というものは素晴らしい。

だが人間性は残酷だ。打ち立てられた社会の内外で、ある者は疎外されある者はイジメ抜かれある者は自殺する。単に死ぬというんじゃない。まさしく社会の平和と繁栄のために殺されるのである。それこそ虚淵が延々描いてきたように、すべての社会は異形の存在を(形態・濃淡は様々あれど)排除するという、まさしくそのことで以て存続する。人間性とはこのように残酷だ。これは史上すべての革命家の主張でもある。

人間の体制はそのままでそれなりにうまく出来ている。人間の本性・人間の自然というものがそれなりにうまく出来ているからだ。だが残酷でない体制などありはしない。人間の本性は結構残酷だからだ。で、この残酷さにどう対処するのかということが、正義に関する議論のまさに核心部分だったはずである。本性や常識はほとんど常に、理に適わない不正を引き起こす。だから正義論を展開しなければならないのだし、個人道徳を再検討しなければならない。そしてこの作業は、人間本性や常識によってなされるのではなく(こいつらは被告人だ)、「なんか理に適っていないぞ」というもやもやの出所、つまりわれわれの実践的合理性によって主宰されるべきものである。

まどマギは、個人道徳学説のバトルロワイヤルという側面を保持しようと企むなら(別に企む必要はないわけだが、そう読んで褒めてる人が現に多い)、理性的内実を伴った原理を登場人物へと化身させなければならない。この点について、さやか・杏子・ほむら・マミさん・そしてキュゥべえは立派である。彼彼女らの一連の行為は筋が通っている。行為の準則を理性に領導させている。だがまどかはそうではない。彼女は理性を信用しない。彼女は徹頭徹尾常識と良識の枠内で行為する。結果としてそれはうまく行く。そしてまどかの行為準則が物語内で正当化される。良識に従って生きなさい、そうすればうまく行くのだから*4。これを見て打算的保守主義者の宮台真司はまどマギを絶賛するという戦略を取る……。

すべての社会のすべての異端者は*5、だから、宮台に対して抗議するのと同じように鹿目まどかに抗議しなければならない。社会のすべてのわれわれは、今や次のように言わなければならない。まどか、お前の行為準則は、現に成立している常識によって抑圧されている人々を救いはしない。まどか、お前の言うところの人間性というやつは、われらを非人間と措定して虐げてきた概念だ。まどか、お前は革命家などではなく、したがってまどかマギカ、お前のような作品は叛逆の物語の名に値しない。

最後に功利主義について少し書いておく。この思想は、論壇にはほとんど論破されるためだけに登場してくる感さえあるが、案外しぶとく、真剣な検討に値するものであると思う。

功利主義は少数者に厳しいと言われる。然り。だが功利主義は、マージナルな人々に厳しいかというと、必ずしもそうではない。この点で事態は逆転する。危害原理を装備した規則功利主義は、むしろAの幸福もBの幸福もCの幸福も、ひとしなみに保護した上で、ひとしなみに天秤にかけよというイズムである。無論その天秤は少数者の幸福を圧殺する傾向を持つが、それとても時には少数の抑圧者を追いおとすための武器となるのだ。これはなかなか革命的な話に思われる。

功利主義には確かに明白な欠点がある。だが欠点が明白であるということは逆に言えば、理性によってそれを修正することに希望を見いだせるということだ。それは人間性へ拝跪するよりもずっと素晴らしいことだと俺には思える。

キュゥべえは人間的な存在ではないが理性的な存在である。そのキュゥべえを理性によって説き伏せるでなしに、白色テロによって強制改宗させた鹿目まどかは、理性のこの素晴らしさ、この尊厳を踏みにじったのだ。俺は再び繰り返すが、まどかは革命家などではなく、したがってまどかマギカという作品は叛逆の物語の名に値しない。

*1:他の奴らが「これはよいことか?」「あれは幸福か?」という規範倫理学的問いを立てている中で、「幸福とはこれ(宇宙を延命させること)だ」というメタ倫理学的主張をしているのがキュゥべえであるように思われる。議論がすれ違ってるのだ(ただし、キュゥべえのメタ倫理学的主張は、非常に強い規範倫理学上の主張を含意するように思われるから、すれ違いが露出している場面は少ない)。この点からもまどマギは、行為準則を巡る思考実験としては凡作だと思う(あえて書くがこれは作品全体に対する評価ではない。まどマギが総体として傑作であることは俺も認める)。問題が明確でなければセンスオブワンダーも何もない。

*2:「悪化」というのは、素朴な意味での悪化である。素朴でない意味、つまりキュゥべえ的意味では、幸福に関する事態の悪化などはない。幸福の総和は、魔法少女が魔女になったとて、どこかで救われる人もいるのだから相変わらず一定だ。だが人間だれしも身の回りの人ばかり不幸になればよくないことが起きてると思う。通俗的な意味では厚生が悪化しているのだ。そして、通俗的な意味での悪化というこの感覚は尊重されるべきである。というのも、「なんか事態が悪化しているなあ」という感覚は、単なる謬見であることも多いけれど、実践的合理性に照らした不合理性(「理に適っていない!」)の所在を突きとめていることもまた多いからである。まどマギの根本的な問いは、いかなる行為準則がより理に適っているかというものなのだから、通俗的な意味での不正の感覚を丹念に描き上げることは決して欠かしてはならないのである。

*3:「単なる言いっぱなしの批判はダメだ」ということではない。「Bはダメだ」式の単純な批判が要求される場面は多々ある。ここで言いたいのは、いくらBがダメだとしても、そのことで自動的にAが正しくなるわけではないということだ。「Bはダメだ」は、正しいとしても、「Aは望ましい」を含意しない。

*4:事実を説明する立場としては、「本性と常識にしたがってりゃだいたい正解」というこの立場は非常に強力、というかだいたい正解である。革命はだいたいの場合、直接には破滅的な結果を引き起こす。この歴史的事実性を描ききった作品として見るならば、まどかマギカは文句のつけようのない大傑作だ(俺は以前、このことを「まどマギは左翼の敗北主義的な気分を描いてて傑作」という風に表現したことがある)。だが、今しているのは事実の話ではなく権利の話だ。事実として革命は常にやばかったかもしれないが、そういう事実があったとして、それは理性による体制批判をまったく否定する根拠たり得るか? 断じてそんなことはない。

*5:われわれは潜在的には皆そうである。