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世界を暴く

異端者ゆえの特権的認識

芝村裕吏の問題意識:どうすれば生き延び勝利できるか?

マージナル・オペレーション 01 (星海社FICTIONS)

マージナル・オペレーション 01 (星海社FICTIONS)

一巻を読んだ。作者の芝村裕吏は、PSゲーム、高機動幻想ガンパレード・マーチのデザイナーとして有名な人物である。この作品、マージナル・オペレーションも、イマドキっぽい舞台装置(30歳ニートが民間軍事会社と契約してドンパチやりに行く話だ)の上で展開されるガンパレと見ていいと思う。

ガンパレというのは基本的にはエヴァである。細かい異論の余地はあり、俺もその異論の方に結局は同調するのだが、まあとにかく圧倒的にエヴァフォロワーだと解釈されてきた。幻獣とかいう、やたらと数の多い使徒が日本に攻めてきて、学生がそれを人型ロボットで迎撃する話である。外形的には確かにまったくエヴァである。

しかしガンパレに盛り込まれている洞察はエヴァのそれとは大きく異なる。似たような設定・ストーリーに、異なった主題が載せられているのだ。ガンパレが面白いのはこの点においてである。

ガンパレの洞察とは何か。これは、シンジ君と、ガンパレのプレイヤーキャラとの違いに注目すると浮き彫りになる。シンジ君は使徒を倒すことにあまり苦労しない。使徒を倒せるか否かということは、結局は自らの覚悟の問題、あるいはせいぜい綾波やアスカとのコンビネーションの問題なのである。というか、より大きく言えば、いかにすれば使徒を倒せるかなどというのは本当の問題ではなく、真に問われるべきは俺の心だというのがシンジ君において示される思想だ。

これはガンパレとは違う。ガンパレの敵は非常に強い。キャラクターたちは油断するとどんどん死ぬ。で、この死は覚悟などでは覆せない。そこで、いかにすれば生き延び、仲間を生かすことができ、また勝利できるかということがリアルな大問題としてせり上がってくる。エヴァにはない問題が前景化するのである。

ガンパレード・マーチにおける回答:目的意識的に自己支配せよ・信頼に値する人間になれ

では、ガンパレにおいて、プレイヤーキャラクターたちはどうすれば生き延びることができるとされているか? 答えはおそらく次のようなものだ。目的意識的な自己支配と、人間関係における誠実。これらによって人は戦いを生き延びることができるというのがガンパレの洞察である*1

ガンパレで最初に叩きこまれるのは規律である。兵士はよく学びよく訓練して生き残らなければならない。教師=教官はそう繰り返すし、授業サボってると多くのクラスメイトから普通に白眼視される。

だが規律バカというのは、それはそれで戦闘では生き延びられない。それゆえ、次のような裏カリキュラムが、同時並行的に教官やクラスメイトたちから伝授されることになる。「生存という目的に適わない訓練や任務は思いっきり手を抜け」。訓練をこなすことそれ自体が目的なのではない。生き延びるための手段として、授業や訓練を利用し尽くすことが求められる。課外の会話で教師から「馬鹿正直に授業に出るなよ。自分で考えて、必要なさそうなコマの間は自主トレしてろ」みたいなことを言われるのがガンパレというゲームなのだ。要するに、目的意識的に自己統御しろ、ストイックに日々を送れ、さすれば生き延びられるというのがガンパレ第一の洞察なのだ。

だが、一人の動員兵がいくら技量を磨いても、大勢にはまるで影響しないというのも戦場の現実である。ガンパレはこの点についても目を行き届かせている。プレイヤーキャラクター一人が頑張っても、案外事態はどうにもならない。

それゆえ、プレイヤーキャラクターの主要目標は、中盤以降、組織のパフォーマンスをいかに向上させていくかというものへ、また、作戦区域全体における作戦行動をいかにうまく推移させるかというものとシフトしていく。ゲーム内の言葉を用いれば、会話や会議を繰り返すことで隊内政治のイニシアティヴを握り、またお偉方への陳情を行うことで、一部隊の枠を超えた介入を戦線全体ひいては戦争全体に対して果たしていくことが求められるようになるのである。

そして、この場面において鍵となるのが、介入されるところのNPCたちとの人間関係である。当然のことながら、NPCたちは、プレイヤーキャラクターが日頃から信頼に値する行動を取っているのでなければ、プレイヤーキャラクターに協力しない。固い信頼関係を日頃から育んでいるのでなければ、NPCの助力は得られないのだ。問題のスケールが大きくなれば大きくなるほど、一人でなんとかできることは限られてきて、日頃の誠実なコミュニケーションとそこで培われた信頼とが重要になってくる。これが、戦闘における生存と勝利という主題を巡る、ガンパレ第二の洞察である。

再び芝村裕吏の問題意識:題目以前に今いかに行為すべきかが問題だ

以上二点の洞察は、単体で切り出してみるなら適当なバイトを数日もやれば想到できる程度の教訓だが、ロボットでの戦争を描いたエンタメ作品に搭載される思想としてはちょっと異様なものだ。ガンパレというゲームは、ロボット戦における生存と勝利というトピックに関して、エヴァとは、というかその他多くの類似作品とは視角の異なる洞察を含ませているのである。

他の多くの作品がそうであるように、ロボットによる異種生命体殲滅戦という状況設定からは、普通、「この戦いの意味は?」とか「この戦いは正しいか?」といったような倫理的問いや、「僕って何?」「人生って何?」みたいな実存的問いしか立ちあがらない。だがガンパレは違う。もちろんガンパレも戦いは正当化できるかとかプレイヤーキャラクターは何者かみたいな問いは立てるのだが(そして電波的な陰謀論に陥ってわけの分からないことになるのだが)、それ以前の前提問題として「生きるためにはどのように行動すればいい?」というものが厳然とあるのだということを、シビアな難易度によって突きつけてくるのである。

で、この問いに対し、ガンパレ的な回答は、目的意識的自己支配と、人間関係における誠実というものである。このことは既に見た。これを俺は美しく的確な思想だと考える。が今はそれはどうでもいい。本稿はガンパレが示す洞察についての論評をあえて差し控える。代わって本稿残り半分で目標とされるのは、芝村裕吏ガンパレード・マーチで示した以上のような洞察が、彼の近作、マージナル・オペレーションにも息づいているということ(また、重要な地点でマイナーチェンジと深化が見られること)を確認することだ。

辺境に響け突撃行軍歌

本作、マージナル・オペレーションの舞台は、近未来における中央アジアの紛争地帯だ(たぶんトルクメニスタン*2)。専門卒後しばらくニトった上で就職した会社が先日潰れた30歳の主人公は、いよいよ金がなくなり、この地域での米軍の作戦行動を一部請け負っている民間軍事会社と契約を結ぶ。年俸600万で、直接銃を取るのではなく、実動部隊をオペレートするのが仕事だ。近未来の米軍はリアルタイムに戦域をデータ化することができてるみたいで、そのデータをもとに、後方で画面とにらめっこして「おい、お前のセクションはちょっと突出し過ぎてるぞ」などと言ってやるオペレータ(というか遠隔指揮官)が結構な数必要になってきているのである*3

で、書いてしまうと、日本にいた頃は人生の半落伍者だったこの主人公は、戦地で天才的軍事指揮官としての才能を開花させていく。これが話としての面白さの核だ。いわゆる俺TUEEE系である。まあ物語的な狙いとしては単なる俺TUEEEに留まるものではなくて、TUEEE俺は自らの強さにどう責任を持ち何をすべきかみたいな射程がさらにあるんだけど、その辺の要素は正直他でも読める平凡なものだからここではわざわざ紹介しない。

本作で非凡なのはやはり俺TUEEEの内実である。ガンパレにおいて生き延び勝ち残るための具体的方策に関し洞察が凝らされていたように、本作も、強くあるとはいかなることかということを少なからぬ紙幅を割いて描いている。どこぞのキリトさんみたいに、いつの間にやら最強に達してるなんてことはないのだ。

例えばこの主人公、ウズベキスタンでの研修過程でどう過ごしているかというと、眼精疲労と肩こりの和らげ方を研究し(39-42)、売春宿に行ってナニもせずに英会話を教えてもらい(48-51)、トイレ休憩ナシでオペレーションを続けられるようにオムツを個人輸入してぇなとか考えてる(51-52)。どんなニートだよ……。ともかくも、何をなすべきかということにおいて、彼の態度は一貫している。任務に向けて自己のパフォーマンスを向上させよ。極度に目的意識的なガンパレ的な道具的知性が、ここでもストイックに自己を支配するのだ。上に掲げた例は無論ほんの一例である。

兵法書としてのガンパレが唱える、第二の教えについてはどうだろうか? 仲間との信頼関係というテーマは、本書では当初なりを潜めている。そのことは上に示した、研修期間中の主人公の足取りからも見て取れるだろう。友情とかはいらねーのだ。というか、そもそも個人的な信頼関係に頼らずともある程度のことができるようになるというのが、組織というものが人類史上屈指の発明である所以であったはずである。軍隊というのは特にそうだ。好き嫌いで服従不服従を左右されてはたまらない。コミュ障ではないにせよ冴えないことに変わりはないこの主人公が、それでも一転大活躍できる理由がここにある。

だがそれも一面の話だ。軍隊でだって、結局最後はチームワークがものを言うのである。本作もその認識を共有する。それゆえ、孤独な意識から仲間と共にある意識へ、という物語的運動が動因を得ることになる。現に物語はそのように推移する。これについて知りたい向きは、さすがに書いちゃうとネタバレすぎてアレなので、読んで確かめてみてほしい。一言ガイドを差し挟んでおくと、単に仲間候補がいてそいつと仲良くなりますよという話ではなく、あいつと仲良くなるのかな? こいつと仲良くなるのかな? と、色々気を持たせた末に意外ながら納得の決着へ向かうというのが、なかなか読ませるところである。目下の文脈上は関説しないけど、ハーレムメーカー的な構造を読みこんで一席ぶつこともできるんじゃないかな。

話を戻してまとめると、この小説、やっぱりガンパレ的洞察の、伊藤計劃的状況における応用問題として読むことができて、俺の見るところそここそが興味深い。ガンパレのあのヒリつくような切迫感は、よく保存されて本作の中に確かに受け継がれている。

二つのマージナリティ

とはいえ本作はまったくガンパレそのままというわけでもない。ある重要な点において相違が見られる。両作を比べてみると、主人公というものの描かれ方ないし存在感が全然別物なのだ。

ガンパレにおいて、「主人公」は透明である。プレイヤーキャラクターはいて、そのキャラクター自身は外形的にはキャラ立ちしているのだが、内省し、エゴを持ち、私秘的な領域で外界について言祝いだり毒づいたりするような、そのような特権的存在としての「主人公」は消えているのだ*4。このことにはおそらく、ストーリー展開を主にRPGパートで以て行うという、ガンパレのゲーム設計が関係しているだろう。古典的RPGの主人公とは、すなわち喋らない・内面を持たない人物の謂いである。

だが本作、マージナル・オペレーションは小説、それも「僕」の一人称で綴られた小説だ。紛争地帯での生活は徹頭徹尾彼の目を通して語られる。この点が本作をガンパレから大きく分け隔てさせている。

本作の主人公、アラタは、マージナルな人物だ。日蔭者だ。彼は世界から遊離した意識である。なんとなくゲームの専門学校に行き、なんとなく卒業し、なんとなくニートになる。能力がないというのではないのだ。彼の知性は自分がニートになって行く全過程を冷徹に観察し分析している。それを避ける策まで完璧に知悉している風である。だが彼の知性は行動を伴わない。自らを周辺的なところへと押しやる世界の濁流をただ眺めている。

ばからしい、というのが彼の魂の通奏低音であるように思われる。就職するためには何をすればいいか彼は知っている。で彼はその方策を実行できる。だが次の声が聞こえてくる。なにが嬉しくて就職するのですか? 口には出さないが、彼の真意はこのようなものだ。世界はおしなべてばからしい。

もちろん彼にとっては就職するのと同程度にニトるのもばからしい。それで彼はしばらくして小さな会社にさくっと就職する。で、先に書いた通り、この会社はさくっと倒産してしまい、それを以てこの物語は開幕する。この全過程を彼はまったく無感動に回顧している。

つまるところ彼は世界から疎外された人間である。心の底に世はすべてばからしいとの思いを潜ませながら、無感動に日々を送る人間である。そのような意味で彼はマージナルな人物である。

このようなマージナル・マンが、地理的にマージナルな辺境の戦地で逆に本領を発揮するというのが、本作を独特なものとし、ガンパレから隔てさせているているところの思想である。異端者ゆえの特権的認識というものを本作は認めるのだ。すなわち、無感動に日々を送る人間であればこそ、何ごとにも動じない透徹した知性たる資格を持つとされる。

例えば行軍中の小隊が思いもよらぬ襲撃を受ける。普通は動じる場面である。なんでこんなことになった? ツイてないぜ。このような動揺は本作の主人公には無縁である。彼は世界にそのような感情的彩りをほどこさない。彼がまず考えるのは、敵はどこから寄せてきているのかということであり、また何を考えてこの襲撃を仕掛けてきているのかということだ。敵の目標が部隊の殲滅であるならば、遮蔽物の陰に隠れて控え目にさせるよう命令すべきだ。だが敵の目標が人質調達にあるならば、一地点を固守させることはかえって下策だ。してみると……。

要するに彼は戦場でまったく透徹した知性となる。夾雑的な思考などない。常に冷静に命令する。世はすべてばからしいと感じすべてに対し冷めている彼だけが、特権的に、世界についての正しい判断を下すことができる。これが本作、マージナル・オペレーションが提示する、独特の思想的風景である*5

この主人公は、ところで、意思決定においてまったく感情を排していると言えるだろうか? 同じことだが、意思決定に際して自らの実践理性を道具のようにこき使っていると言えるだろうか? 本節で見てきたところのみからすると答えはイエスであるようだ。

だが、そう言いきってしまうことに俺はためらいを覚える。思い返してほしいのだが、ガンパレ第二の洞察とは、仲間との信頼ということだったからだ。道具的理性が吐き出す諸々の判断というのは、ある意味で合理的かもしれないが、仲間との信頼を決定的に損ねはしないか? そして、信頼に足らないそのような「合理的」意思決定というのは、言葉のより深い意味で、不合理な決定ということにならないか?

何年か後、私は合理性のこの見方の限界を身にしみて感じることになった(そしてそのことには、若干の実践的な重要さがある)。それはベトナム戦争中のことで、私は国防省の高官となっている友人に会うためにペンタゴンへ行ったのである。私は彼に、合衆国がとっている戦争政策、とりわけ北ベトナムの空爆という政策の誤りを指摘しようと試みた。彼は数理経済学で博士号を持っている男で、黒板に行っておなじみのミクロ経済分析の曲線を描き、こう言った。「これら二本の曲線が交わるところで、抗戦することの限界効用と空爆を受けることの限界負効用が等しくなる。そこまで行ったら、やつらはあきらめざるをえない。われわれが前提しているのは、やつらが合理的であることだけだ。われわれが前提しているのは、敵が合理的であることだけなんだよ」。

(ジョン・R・サール『行為と合理性』)

芝村裕吏の立場は決まっている。ペンタゴン流の合理性は最終的には否定されなければならない。実際に、本作の結末はその拒絶への第一歩として設計されている。主人公の透徹した知性は、そこで透明な知性であることをやめ、仲間を助けるため、心ある知性たらんと歩みを始めるのだ。

あるいはまた、常に冷めているがゆえに人間としてまともでいられるという逆説も本作は提示するかもしれない。大人も子供も誰もが憎み憎まれあう紛争地で、彼だけが憎しみに塗れず人間的に行動しうる。そのような洞察を読み込めるだろう描写も本作には存在する。またしても心ある知性への歩みが見られるわけだ。

その歩みの結論を見届けることはだがこの一巻だけからでは不可能だ。それゆえ俺は大いに不審がりつつ*6、主人公の知性の発展を見極めるため、続巻を読んでみようと心を決める。今からそれが楽しみだ。

但し書き

まず、後半が雑になったことを詫びておく。

その上で念のため書いておくと、以上の話はあくまで一個の詩的認識・小説的認識の個人的な展開なんであって、あんまり真に受けられると困る。とはいえ歪みに歪んだ色眼鏡だって、世界に対する上では実践上必要となることもあろうと思う。このエントリは、というか広くこのブログに書いてあることは、そのようなものとして受け止めてもらいたい。

また、このエントリで展開したのは、あくまでマージナル・オペレーションという小説に搭載された思弁の抉出作業だ。この小説の面白みとか娯楽性について書いたわけではないということも心に留めておいてほしい。というのもこの小説、審美的には文章がめっちゃシンプル、という特徴があって、世間的にはダメ小説の烙印を押されてたりもするからだ。俺としてはその批判に共鳴するものではないが(シンプルな文章すなわちダメな文章、という言い方がよく分からない)、確かにエンタメとしては地味なのかなあとも思うのである。だからとにかく面白い小説が読みたいという人に薦めるものではない。そのことを断っておきたいのである。あと子供兵とか出てくるので、そういうの見るだけでうへぇってなっちゃうって向きにも薦めない。

あ、挿絵は大判でキレイかつ全部カラーなので、絵買いする人には超お薦め。

*1:言いきってしまってびくびくしている。ガンパレというのは非常に多声的な話だからだ。本当のところを言えば、ガンパレの世界はストイックに生きることを正当化するのではないのかもしれない。だらだら生きて、だらだら死んだり、だらだら生き延びたりしても、プレイヤーキャラクターは一部NPCから非難されこそすれ、世界全体から拒絶されることはない。世界は広くて人生は自由なのだ。だけれどもその自由の上で、やはりストイックに生きていった方にこそ、真に面白いイベントが用意されているというのもまたガンパレの世界なのである。そのことを指して本稿は、ガンパレはストイックな生き方をこそ正当化していると述べるのである。

*2:「輸送があるということはそれだけ前線に軍があって、軍の動きがあるということで、知らされてこそないものの僕は大規模な軍事行動があるんだろうなと考えた。南のイランか。北のロシアか。あるいはイランに行くと見せかけて、アフガニスタンかも知れない」(177)。南にイラン、近くにアフガンなんだから、たぶんここはトルクメニスタンなんだろう。無論、小説的に肝心なのは、主人公が自らの任地がどこかということにさえ必要がなければ関心を寄せない、極度に即物的な人物であるということだ。彼は自らの任地を、ただ「なんとかスタン」とだけ呼んでいる。

*3:「んな仕事が成り立つわけねぇだろ」とか「あるとしても日本人は人件費高すぎでありえねぇだろ」とかいうことは思わなくもないが、まあ、これはそういうリアリティを求める作品ではない。むしろ、そのような設定は所与として受け入れた上で、人間についてどのような洞察を示せているかという点を見極めるのが正着だろう。

*4:プレイヤーキャラクターというのも、二周目以降は20数人の中から一人を指定して選ぶものである。やはり「主人公」が立ち上がってくるものではない。

*5:このような思想に対しては、いかなる評価を下すべきだろうか? 俺個人としては、異端的な存在者性から認識の特権性をひねり出してくるような認識論は倒錯的であると考えている。したがって「異端者ゆえの特権的認識」というテーゼそれのみに対しては、面白い小説的認識だがまともに取り合うのは間違いだ、という態度を取ることにしたい。だが後にも述べるように、本作の洞察は「異端者ゆえの特権的認識」という点では停止しない。そして俺はその結論を見極めかねている。したがって「異端者ゆえの特権的認識」テーゼが仮に正当化し得ないとしても、それは本作の思想的価値を破壊するものではない。

*6:俺は道徳的合理主義者にして動機づけに関するヒューム主義者なので、意思決定という主題に関してはペンタゴンの高官の側に立たざるを得ないのである。