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世界を暴く

映画『風立ちぬ』に覚える不満

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感覚を愉しませる点は多いがメッセージをまともに受け取る映画ではないと思う。メッセージそれ自体がダメだということではなく、メッセージに相即した表現がなされていないのである。

本作のキャッチコピーには「生きねば。」とある。これは込められたメッセージを的確に言い表わしたものだ。われわれは罪深き生をそれでも生きなければならない。ここで生きるとは単に生存するということではない。自らの本分を尽くして生きるということである。主人公・堀越二郎は飛行機を作りたくて作る。それは殺人機械なのだが、彼は承知の上でそれを作ってしまうし、作らねばならない。別に作らなくても死ぬことはないと思うんだが作るのである。何でかというと、自らの本分を尽くすというそのことが「生きる」ということだからだ。生きるとはそういうことだ。なるほど。

このメッセージの裏面は、もちろん、生きるとは残酷なことだということである。この映画は一応そこまで見据えている。だがその描き方が明らかに逃げてると思う。俺が不満に感じる点はそこである。

生の残酷さをこの映画は主にヒロインの死を通して語る。主人公はヒロインのことが好きである。ヒロインの側でも主人公のことが好きである。しかしヒロインは結核に冒される。ここで主人公は、ヒロインの健康を真に慮るのなら頼むからサナトリウムで療養に専念してくれと彼女に説くべきだし、愛こそ至高と考えるのなら仕事を放り出して二人で短い愛を燃やしつくすべきである*1。だが加えて、彼はもちろん飛行機を作りたい。彼の本分とはそのようなものだ。この状況における主人公の選択に、自己の本分を貫徹して生きるということの残酷さが示されるはずだ。

以上の問題的状況は、劇中では、相互行為における調和とでもいうべきものによってあっさり解消される。陳腐な言い方をすれば愛によって解消される。ヒロインは、超イイ女なので、わたしは仕事してるあなたが好きだし好きな人と居れるなら死んでも構わないみたいなことを主人公に対し言う。選択問題は消えてなくなる。主人公は愛ある日々と仕事とを自動的に両取り出来ることになった。それがヒロインの意思だから。愛による幸福の仮象。

でも幸福は儚くて生は残酷だ。女は主人公が一仕事終えたのを見届けると山中の療養所に戻って勝手に死ぬ。主人公は仕事をする、女は死ぬ。生は残酷だなあ。これが本作が描くところの生の残酷さである。

さて、これはちょっと回りくど過ぎると思うのである。これは明らかなことだと思うが、主人公・堀越二郎の生が孕む本当の残酷さというのは、自ら望むところの飛行機を作った結果として何千何万という敵味方兵を死に至らしめ、あるいはまた国内外で何十何百万という人間が巻き込まれた戦争の遂行に間接的にであれ加担したという点にある*2。「生きねば。」を描くなら、単にこれを描けばいいはずだ。

例えば主人公は九六式に続いて零戦を設計するのだが、この機体は防弾性能をほとんど放棄して運動性能を取ったものである。で、この仕様は、この映画の解釈によれば、主人公の美学の反映である。主人公が「生きた」結果として零戦は紙装甲だ(もちろん直接の因果関係があるわけではなく、間にエンジンの非力さ等々が絡みはするが)。だから死んでいく搭乗員たちには「よくもこんな機体を作りやがって」と言う権利がある。生の残酷さとはこのことと思う。単にこれを描けばいいはずだ*3

だが現にそうなってない。この映画は「生きねば。」というメッセージから当然予想される描写をあえて回避する。主人公が航空技師として生きた結果として、従容として女が死ぬというのはよく分からない話である。主人公が航空技師として生きた結果、飛行機乗りひいては無辜の民衆が死ぬというのが問題の真の姿であるはずだ。さらに言えば、この映画の前半部分、なんかプロジェクトXみたいな話をしている部分は、ひたすら後者の(「真の」)問題機制をこそ提示していると思うのである。わが飛行機が戦争機械となって人を殺すという逆説は、提示はされているのだ。だがこの問題提起は、イイ女が文句も言わずに清潔に死んでいくということで以てうやむやにされてしまう……。

以上のことから俺はこの映画、メッセージに表現が相即していないと考えるのだ。航空技師が「生きねば。」する話、というのを本当にやりたかったのなら、プロットはもっと別物になってしかるべきである。で、そうでない以上、「生きねば。」というメッセージを提示する映画としては、これはそんなにうまくないんじゃないか。

とはいえこのことは映画としての低評価を意味するわけじゃない。俺はこの映画のことを結構好きである。最初に書いた通り、感覚を愉しませるということに関して、これは非常に完成度が高い。昭和ヒトケタ風俗モノとして極上の逸品であるし、兵器鑑賞アニメとしても完璧である。これらのことから風立ちぬがいい映画だというのは、俺にとっても非常によく分かる話だ。だがそのことは、メッセージの表現における不徹底という問題をそれ自体チャラにするものではないだろう。むしろ映像的な成功ゆえにこそ、そのような感覚的豊饒の中に逃げを打った話を紛れさせているような脚本上のやり口に、俺は不満を覚えるのだ。

*1:ここで「べき」とは道徳的勧奨ではない。そうしないのは単に不合理だということである。

*2:断っておくと、ここで主張しているのは、この戦争に何百万という人が巻き込まれ、そのことは残酷であるということのみである。この戦争が侵略戦争であったか正義の戦争であったかということは目下の話には関係しない。仮にこの戦争が正義の戦争であったとしても、数百万の死者が出ることは変わらず残酷だろう。

*3:一応描かれているといえば描かれてはいる。ラストシーン、自らに向かって敬礼する零戦搭乗員たちを見送った主人公たちは、彼らについて「でも一機も帰ってきませんでした」と述懐する。深い罪の深い闇を覗かせる一場面である。だが逆に言えば、この話に割かれているのはほとんどこの一場面だけだ。それじゃ足りない(し、そここそがマジな主張なんだとしたら、逆に女の話が要らなくなるじゃん?)というのが本稿の主張である。