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世界を暴く

懐疑論者は体制の走狗だ、潰せ

タイトルは釣りかつ煽りだが間違いではない。懐疑論者というと通俗的にはニヒルな反体制の狂犬みたいに捉えられがちである;だがそれは嘘だ。そういう主張をするタイトルであって、綴り間違いではない。

もちろん、常に不平をこぼすかへらへらするかしてる懐疑論者が、いつの時代もだいたいにおいて生活上の敗北者だということは正しい。この点を通俗的イメージはよく掴まえている。しかし生活上の敗北は直接に反体制を意味するのではない(貧乏人だって自民党に入れる)。懐疑論者はむしろ、生活に敗北しながらにして却って、自らを敗北せしめるところの体制に対しての協力者である。

懐疑論者とは例えばこの世は全部夢なんじゃないかと疑ってみるような人間のことだ。もちろんここで問題にしたいのは、急に世界の輪郭が歪んだり、あるいは股間に湿ったぬくもりが差したりしたがゆえに「これ夢じゃね?」と言いだす者のことではない。そういう疑いは理由がある合理的なものであって、通常の人間的営みの一環をなしている*1。われわれが懐疑論者として名指したいのはそうではなく、突然、特段の理由もなく、「これ夢じゃね?」とか言い出す者たちのことである。

この手の人間に対してまずなすべきことは、「そうです実はこれは夢です。明日にも覚めて消え去ってしまいます。だからその財布の中の三万円よこせ」と言ってみることだ。まーこれで三万円もらえたら儲けものなわけだが、そんなことは実際上はあるわけなく(さらに言うと、この場面でサクッと三万円を渡してくれる人間は、実は懐疑論者ではなく単なる反現実論者である。その人にあるのは懐疑ではなく彼岸への確信だ)、代わって見られる反応は次のようなものだ。「いやいや、私はあくまで理屈の上だけで色々疑ってみてるんであって、色々疑ってるからって実践の場にまでそんな変なこと持ち込みませんよ」。

この反応はある意味で必然ではある。すべてを疑うと称する懐疑論者にとっても、次の事情は常人と同じくあてはまるからだ。行為しなければならない、実践しなければならないという事情である。懐疑論者はいまの例でいえば、三万円を渡すか渡さないか二つに一つである。ともかくも選択がなされなければならない。これは人間の条件だ。

で、決定しなければならないというこの事態に対して、根っからの懐疑論者であれば二つに一つだからコインを投げて決めようとでも言うかもしれないが、まあ大抵の人間はそうはしない。大抵の自称懐疑論者は、すべてを疑うと称しながら、秘かに何らかの行為準則を疑いから防護し、それを根拠に「三万円渡すのは変だ」を結論するのである。というか、行為があるからには、そこには懐疑から防護された何らかの理屈が温存されていなければならないのだ*2。したがって事態は次の通りだ。懐疑論者たちは、俺に三万円くれたりするでなければ、実は何らかの理屈を懐疑せずに密輸入している。

ここで、「そうです。実は私はこれこれの理屈によってあなたに三万円を渡さないことを正当化してます」という人間をわれわれは歓迎する。だがそのような人は別に懐疑論者ではないから今の話には関係しない。懐疑論者というのは、ここまで追い詰められたその次に、以下のような反応を示すような者だ。「理屈じゃなくて、常識的に言っておかしいじゃん」。そして常識というのは究極的にさえ言語によっては記述しつくせないから理屈には還元できないらしい。

要するに懐疑論者は、どうせ夢だからと俺の恐喝もとい請求に応じるでなければ、世の中には言葉じゃ書けないものがあるぞとする非認知主義者を兼業している。そして言葉じゃ書けないものがあるとする非認知主義はいつだって、既に成立している常識を保守するしかないのだ*3。そしてそして、とりわけ価値についての非認知主義は、常に既に異端者を抑圧して排除しているのだ(→まどマギに関するこのエントリでも、論証はしてないが*4、このことを書いた)。

世の中のことはよく分かんないねー、とか、すべては人それぞれではっきりしたことは何も言えねー、とかいうシラケだかゆとりだかのコミュニケーションのモードは、だから、今やはっきりと拒絶されるべきである。このようなコミュニケーションの様式は、なるほど変なこと言って恥かくのを回避できるという心理学的というか精神分析的合理性があるわけだが、当為の問題として容認することができない*5。「証拠はないけどすべては疑わしい」は、「でも正しい行為をしなきゃいけない」という人間の条件を前に、即座に「常識だけが頼りとなる行為の指針だ」に反転する。この意味で、懐疑論者は体制の走狗だ、潰せ。

さて、では懐疑論者を、というかシラケたコミュニケーションの様式を潰すためには何をすればいい?

状況はあいにくかなり悲観的である。シラケたコミュニケーションの様式は、われわれの日常感覚の中で、なぜかは分からないが(分からないことにしておくが)ロックでクールでアナーキーで反抗的な態度だと位置づけられている。まったく誤った認識だ。この誤った認識にわれわれの日常実践は支配されている。

だが希望はある。支配が間近にあればこそ、その突破口もまたわれわれの手の届くほど近くにあるのだ。具体的には、以下の対話の不毛を断罪することからはじめよう。

A「あのアニメどーよ? 面白かった?」

B「んあー、あれだ、ほどよくユルくてつまりクソだったけど、そこが絶妙だったね。憎めないなあ」

A「バカ言え、憎めよ。どう考えても脚本が雑すぎるだろ。例えばX話の犯人は、被害者に殺されそうになったところを間一髪逃れたわけだが、その後なぜか被害者を逆に執拗に追い詰めて、殺す。なんなんだあれ。殺されかけたら次は助けを求めに行くだろ普通。なんで逆に殺しにかかる? 動機もないのに? ……いや、まあ、殺しに移る理由は実は分かる。話の都合上殺しが必要だったからだ。でもだぜでも、ならせめて主観的ないし客観的な動機(犯人が実は元々個人的恨みを被害者に持ってたとする、ないし、犯人は実はテンパると無性に人を殺してしまいたくなるようなビョーキだった、等々)を犯人の側に用意するとか、あるいは反射的な防衛行動が過ぎてうっかり殺しちまったとするとか、その程度の機転は利かせろよ。しかもこれほんの一例。というわけでこれは脚本がクソなクソアニメ*6*7。つまりは憎むべきアニメに他ならないね」

B「なるほどですねー。なるほどというのは脚本が破綻してるってことについて。それはその通り。でもほら、破綻した脚本の上でさ、あの豪華声優陣に無意味に芝居がかったセリフ喋らせるらへんの妙にスカしたセンスとかさ、なんというかさ、批評性を感じなくなくない?」

A「感じねぇよ。だいたいスカしたセンスってなんだよ」

B「いやー、それを言葉で言えたら苦労はしないよ」

A「いやいやお前は苦労し足りないかそれとも致命的なまでにバカかのどっちかだよ。お前が言ってるのは、自覚しろよ、次のことだぜ、『これこれは甲の基準のもとではダメだけど乙の基準のもとではよい』。甲の基準、つまり俺がそれに基づいて例のアニメをクソだというところの基準というのは、物語芸術としての完成度だ。これは一には主題自体の良し悪しによって測られるわけだが、それ以前に、そもそも主題提示に失敗してるって場合があるわけだ。具体的には記号操作を事故って死ぬってこと。このアニメの場合はそれ。俺はこの甲の基準で以てこのアニメをクソと断じた。翻って乙の基準、つまりスカした感じとか批評性とかいうのの基準は何だ? 明示化してくれ、明示化してくれ。そうしなきゃ俺には分からない。そうしたらまじめに取りあうから」

B「明示化しろってなー……それはオタク共同体内での暗黙の了解みたいなものなんだよ」

オタク・共同体の・暗黙の了解! 声優性・センスという感性への訴えも二つながら載って、堂々の満貫達成だ。このBの謂いには典型的に、決定的に、非認知主義の保守主義への頽落が示されている。価値に関する非認知主義者の主張は、逆説的に生活感情のありのままでの肯定を要求し、つまり、つまり、体制内在的にしか意味を持たない島宇宙的閉じコンを無条件的に承認するイデオロギーへとそのままで反転するのだ。

この対話において、見かけ上ヤバいのはAだが本当に危険なのはBの方だ。潰されるべきはBである。というのも例えば、Bはアスペ(とはもう呼ばないらしいが)やサイコパスが正しい判断をなし得ることをまったく認めないかもしれない。なぜかというとそれらの人々は暗黙の了解とかいうのを共有しない(し得ない)人々とされるから。無論Bは自らの立場にトリヴィアルな改変を加えてこれら事例を包摂することもできる。だが俺の考えるところ、アドホックな改変を付け加えるごとに、非認知主義者の理論は単なる記述主義・合理主義と見分けがつかなくなってしまうはずである(だって常識に例外を付け加えるんだぜ? その例外の出所は理論家の理性でしかありえない)。保守抑圧主義か本末転倒か、価値についての非認知主義者は二つに一つを選びとらねばならない。

結論をつけよう。われわれは、すべてに対して斜に構えてみせようと気取る懐疑論者が、しかし事実上疑わずに済ませているものがあるぞと指摘した。それは行為に関する指針である。これを疑わずして保持するのは、絶えず何ごとかに基づいて意思決定し行為しなければならない人間である以上仕方のないことだ。だが行為に関する指針はまた、少しずつであれ改訂されていくべきものでもあるだろう。抑圧が漸進的に廃絶されることにわれわれは希望を持っていたい。そしてそうであるからには、行為指針自体が何に基礎づけられ擁護されるべきかというと、それは常識であるよりは理性であるべきだ(理由については注2を見よ。理性という言葉で何を指すかについてはいずれ書く)。この理想を実現するため、われわれは卑近には趣味の会話における韜晦的言辞をできるだけ慎むよう努力するものである。

……ところで以上の対話でBとはBlackburnのBである。要するにこのブログの書き手の半身である*8。Blackburnはオタクを自認し、価値に関して非認知主義者であるようだ。事実(?)Blackburnは今期アニメではシンフォギアGがイチオシとのことである。

合理主義者FirebrandはこのことについてBlackburnを苦々しく思っているようだ。思わず禁制を破ってまで、自分の話をしてしまった。

(続く)

*1:この意味での懐疑論者はむしろ合理的で科学的な人間である。「懐疑論者」を自称しているだいたいの人がこっちの意味でこの語を使ってるように観察される。この用語法は別に間違っておらず、またこの意味での懐疑論者は普通に尊敬に値する。無論このエントリはこのような人たちについて攻撃するものでない。

*2:学術研究に対する思想・批評の独立の地位性はこの点にかかっている。例えば因果同定が事実上不可能な事象について、しかし何らかの因果モデルを把持しているのでなければ生活実践の上で行為を領導させられないということがある。結構頻繁にある。理屈をひねり出すのは不可能なのにそれは必要なのだ。そこで、まあそういう場面では普通は常識にしたがって人は行為するわけだが、俺に言わせれば常識に代えて思想を据えるべきなのである。なぜかというと常識は基本的に不文律だけど思想は言葉で書かれてるから。別に言葉で書かれてれば有意味なステートメントになるわけではないが、しかしそれは少なくとも真理性の検討に際して語られざるものよりだいぶ有利な地点にあるとは言える。明らかに、口伝のワザよりは書かれた物の方が検討には付しやすいから。

*3:文とか命題とかは認知的だ。何でかというと真とか偽とかを一意に言い得るし、間違いだとなれば訂正されねばならないからだ。そして合理的訂正に対して開かれていなければならないという点では、多くの心的状態もまたそうである(現に雨が降ってたら、「今日は晴れだ」という信念は訂正されるはずだ?←この辺よく分かってない。志向的状態は命題的だということを言えればいいんだろうが……)。だから非認知主義者が頼れるのは、結局、分節化されてない共通感覚みたいなものに絞られる。本論中では平たく、常識、と約めた。

*4:このエントリでも、「価値についての非認知主義は異端者を排除する」テーゼは実は論証抜きなので、次回作でこそ頑張りたい。

*5:俺のここでの正義は何か? 実は定かではない。これも宿題。

*6:ここまで今期放送中の某アニメについて言った。作品名は察せ。俺は本論中のAと同じ理屈でこのアニメをクソだと思うが、しかしはっきり言って今期の中では断然まともな方であってその限り見るべきであるとも思う。あと、作中で人間の処刑が描かれるわけだが、その方法がなかなか凝ってるので嗜虐的な人にもオススメだ(快楽を満足させることはよいことだ)。さらに言えばこの作品、まとめブログとかでの叩かれ方は明らかに不当である。というのも原作付きのこの作品は、例えば「あまりに原作そのまま」過ぎるということで叩かれるわけだが、よく考えずとも原作そのままが即クソを意味するということはない。であるからにはまとめ記事を読めば原作ママであることの弊害が併せて述べ立てられているのだろうと予想するわけだが、驚くべきことに管見の限りそのような論にはまだお目にかかってない。つまり、論として成立していないヘイトがこの作品についてはあまりにも多すぎる。非常に残念だ。

*7:というかマジでなんなのあのアニメ? 原作からしてあんなアレなの? いや登場人物にリアリティがないとかは別にいい。新本格の鬼子たる西尾維新のそのまた鬼子としてのあの手の作品に社会派要素は確かに不要だ。でもだとするとだぜ、逆に言えることは、この作品の面白さの本領は殺人の論理性とそれを巡っての推理ないしメタ推理とにあろうってことだ。さてそのつもりでアニメを見てみよう。するとびっくりするわけだ。推理は描写不足で端的に不可能だし(逆に、はしょり過ぎた結果として当て推量的展開予測は超簡単になってる。次に話に絡むヤツら以外はそもそも画面に出てくる間がないから)、推理を不可能ならしめてるところのメタルールにメタ推理を働かせてみても、せいぜい頭の悪い監視社会論的陰謀感覚が出てくる程度(ポスト9・11で監視社会云々? それだってさすがにビッグブラザーにセックスも日記もカメラで見られててヤバいとかいう半世紀前の話を縮小再生産するんじゃ酷すぎ)。要するに今のところ全然ダメだと思う。……思うんだけど、俺の信頼するレビュアーは結構これ褒めてるんだよね。本気? 本気ならみんな俺にこのアニメのよさを、原作のよさでもいいけど、教えてくれよ。

*8:同姓で似たような主張をしてる学者が英国にいるが関係ない。