pathfinder

世界を暴く

艦隊これくしょんを生きていく

妄想ネトゲ私史接触編

むかしむかしネトゲというのがあって、俺の雑な理解ではまずこれの月額課金型のモデルが人を集めて結構稼いだ。プレイヤーは月に1,500円とかそのくらいを運営に支払いゲームをする。

このゲームというのがはっきり言ってクソゲーなのである。まあUOなんかはさすがにゲーム的にもなかなか面白かったように記憶するが、クソというのはそういう意味ではなく、ラグりまくりの作業ゲーでかなりストレスフルだという意味である。まだまだ貧弱だった回線事情もあいまって、当時のネトゲは結構深刻にダルかった。

そんなクソゲーにしかしみんな熱中したわけだ。なぜか。ゲームのダルさとかどうでもいいくらいに、ナマの他人と画面を隔て、キャラクターの仮面を透してやり取りするということが面白かったからだ。

画面を隔てて、ペルソナを透して、というのがミソである。対人コミュニケーション一般の面白みがネトゲにもあるという話ではないのだ。このことはネトゲにのめり込むような仕方で学校生活にのめり込んだり会社組織にのめり込んだりする人間があまりいないことから明らかだ(まあ時々いるけど)。ネトゲにおけるコミュニケーションには、コミュニケーション一般とは異質な快楽の源泉がどこかに存在しなければならない。それが、惟うに、画面を隔てていること、キャラの仮面を透していることなのである。

画面を隔ててるという点、というかより正確にはそのことからする半匿名性という点から書くと、これは自由の経験・解放の経験をわれわれに教えてくれる。学校や会社では決して得られない歓びだ。例えば低レベル時、サクッと組んだパーティでサクッとレベリングしたりサクッと死んだりして、その時の仲間とはその日限り二度と会わないということもあればすぐ再会したりもする。あるいはまた、他人の頑張りをPKで台無しにし、そのことで以てウハウハしてたら後日殺したそいつに復讐されたりされなかったりする。このような経験がネトゲ体験においては本質的だ。退職前の引き継ぎに一ヶ月を要したり、クラス替えのために一年を待たねばならぬというのと類似の経験は、この世界には本来的に存在しない。ユーザー名・キャラクター名のみに紐付けられた、限りなく何にも縛られない自由の経験がそこにはある。すべて画面を隔ててリアルには何らつながりのないところから来る自由だ。これがネトゲ第一の快楽であり、当時のわれわれが競って1,500円とかを運営に捧げることとなった一因である。

だが学校や会社というのもそれはそれで楽しいのだ。進化はわれわれの本能に、目標に向かって皆で努力することは楽しいということを消せないインクで黒々と大書した。われわれは学校や会社を好きにならずにはいられない*1。あるいはまた進化はわれわれ個体のそれぞれに、群れのなかで他人を蹴落とし他人に優越したいという覚めない夢を見せた(そうすれば自分の子孫が多く残る)。われわれは学校では表彰されたがり、会社では出世を望まずにはいられない*2。ところが先の話を真に受ければ、ネトゲにおいてこのような楽しみを得ることはできないようである。してみるとネトゲというのは結局はわれわれの本能に反した、どこかさみしい、一時の自由の幻想に過ぎないのだろうか?

そんなことはないのである。われわれはネトゲにも学校や会社を輸入する。ギルドとかクランとかいうあれである。でもって、共通の目標に向かって邁進したり、新参をバカにして優越感に浸ったりするのだ。ここにおいてはネトゲのキャラがキャラクターでしかないがキャラクターではあるということが決定的に重要である。個体識別が追跡的にも可能であるからこそ(先の言葉を再び用いれば、ネトゲの世界が「半」匿名的だからこそ)パーマネントな関係の構築が可能なのだ。これがもし完全に匿名だったらそうはいかない。完全匿名空間ではギルドなんか出来っこないとは2ちゃんねるを少し見れば分かることだ*3。名前(のみ)によって個々人の同定が可能ではあるというそのことが、自由で流動的なネトゲ世界に、しかし最低限の協力を成り立たせている。これがペルソナを引き受けるところから来るネトゲ第二の面白さだ。

要するにネトゲの面白さは自由性と共同性とから成っている。そして前者は新参にとっての面白さであり後者は廃人にとっての面白さである。集団生活から享楽を得られるのは、多くの場合集団内のカースト上層の人々に限られるのだ。廃人的な人々のみが、ギルド内での交歓を十全に楽しみ、他者に対する優越感情に酔いしれることを許される。共同性の楽しみは廃人たちの専権事項なのだ*4。新参はそのような共同性の楽しみには参画できず、ただ自由の内にのみ楽しみを見いだす。かくしてネトゲの面白さの二契機は実は互いに対立する*5

話を巻き戻すと、このように相互に矛盾しあう面白みの二契機にばらばらに魅かれて、人はネトゲに集まり運営に1,500円を投げたのだった。月額課金制度である。そしてこの月額課金という制度は、自由性と共同性の相克という目下の主題に関して決定的に重要である。結論から言えば月額課金制度は廃人たちの共同性の快楽にとってこそ都合のいいシステムであり、新参にとってはつらいものだ。

ネトゲにおいて、自由性の楽しみというのは運営から1,500円の対価として与えられる楽しみだ。ネトゲというのは、ゲームそのものは最初に言った通りラグりまくりのメチャクソ作業ゲーなわけだが、それをプラットフォームとして展開されるインタラクションそのものには(作業なんだけど)結構バカにできない楽しみを潜ませているのである。原っぱを駆けまわる、敵を斬る、アイテムがドロップ。楽しい。ちょっと遠くまで行ってみる。途端に敵が強くなる。死にかけたところを助けてもらう。arigatoって言ったら英語で返事が飛んでくる。わかんねーよ。thxとでも打っておく。楽しい。これが自由性の楽しみの原像だ。1,500円に正確に対応する部分での楽しみである。

共同性の楽しみはそうではない。それは月額1,500円とは異質な部分から生じてくる。例えばこのゲームをはじめたばかりのAと、はじめて3ヶ月のBがいるとする。すると、AもBも運営に等しく1,500円を支払っているにも関わらず、Bにおいては例えばAに施しを与えていい気分に浸ることも狩り場からAを排除してゲラゲラ嗤うことも可能な一方で、Aにおいてはそうではないという差が観察される。Bだけが共同性の楽しみを享受している。

月額課金制度というのは自由性の楽しみには金を課すが共同性の楽しみには金を課さない。AもBもともに1,500円を払って等しく自由性の楽しみを享受するのだが、共同性の楽しみに関してはBのみが享受できている。この部分をBは無料で享受している。

これには反論があるかもしれない。ここでのAとBとの例で行くと、Aが運営に支払ったのは今のところ一ヶ月分1,500円、対してBにおいては三ヶ月分4,500円である。Bの方が金額的に多くのものを課されているではないか! だがこれはごまかしである。次の例を考えよ。βテスター上がりで正式サービス開始初日から半年間金を払い続け、常に優越感情を味わいながらそのゲームを引退したCと、ゲームが軌道に乗り出してからプレイをはじめ、古参にバカにされながらも半年目になってようやくひとかどの存在となってきたDとの比較である。両人とも運営に払った金は1,500*6=9,000円であるが、共同性の楽しみへの開かれには随分と差があるはずだ。CはDより余分な楽しみをどこかで無料で受け取っている。

月額課金制度はこのように、皆に同じ1,500円を払わせておきながら、先行者に対して傾斜的に楽しみを配分するシステムである。いや、実は先行者に対して甘いのではない。全プレイヤーの内、ゲームにつぎ込んできた累積時間が相対的に多大であるようなプレイヤーに対して甘いのである。要するに廃人に対して甘いのだ。これが月額課金という料金体系である。

月額課金制のゲームはだから、楽しみの分配という点に関して本質的にネズミ講的である。新参だってみんなでわいわい楽しみたくてゲームをするのだ。だが裏切られる。廃人との格差を前に蹉跌を経験する。裏切られて新参たちはその上で、ある者は恨み言を吐きながらゲームを退場し、ある者は追加的に猛烈な時間をつぎ込んで先行者に伍する修羅となり、またある者は自分よりさらに劣位な新参を呼びこんで、そいつらから優越感情を得ようとする。この最後のモーメントが途絶える日が、そして、ネズミ講の破綻でありネトゲの死である。逆に言えば、幻想の破れるその日まで、廃人たちの共同性の王国は栄え続ける。

だがその観念的な王国の中で、廃人たちも新参たちと同じくまた不幸だ。そこには貨幣化こそされていないとはいえ、やはり熾烈な、共同性の楽しみを巡る競争があるからだ。彼らはこの競争にライバルより多くの時間をつぎ込んで勝利しなければならない。そうしなければギルドのトップを張れなくなり、あの子に頼ってもらえなくなり、あいつに大きな顔をされてしまう。明らかにこれは底辺への競争である。実生活での厚生を破滅的な域にまで落ち込ませるところまでこの競争は止まらない。ネトゲ廃人というのはネトゲ内在的な問題である。と、これは話が逸れたが、ともかくも廃人たちも月額課金制度の下で不幸である。

さらに言えば運営もまた不幸である。だって月1,500円だぜ? たかが知れ過ぎだ。モバゲー・グリーを既に見てきたわれわれの目からすれば、何わざわざ儲からないことやってるのという感じである。ついでに言うとまともなネトゲの管理はモバゲー・グリー的カードバトルと違って超めんどい。GMはつらいのだ。MMOをマジになってやってるような人間は、俺はさっき付した注4に今や自ら反して言ってしまうが、だいたいにおいて超めんどくさい奴らなのである。botとかマクロとかザラだし。当時の運営はさぞかし不幸だったろうなあと現代のわれわれにははっきりと理解できるのである。

このように月額課金型のネトゲは、関係する誰をも不幸に陥れる悪夢的なシステムである。誰もが楽しみを求めながら不幸になる。.hack//とかの裏で走っていたネトゲの真の姿とは、げにこのような恐ろしきものだったのだ(ホントかよ*6)。

妄想ネトゲ私史発動編

そんな中、ある日誰かが思いついた。たぶん正史的にはメイプルストーリーの中の人とかになるんだろう。その人は次のように考えた。「共同性の楽しみに課金すればいいじゃん」。アイテム課金モデルの誕生である。

この発想はシンプルだ。そもそもからして、優越感情の取引というものが存在しているのである。つまり、月額課金型のゲームでも、廃人が時間を支出し運営がそれに応えて強アイテム等々を出すという型の取引があった。むしろ折に触れてそういう特別待遇を行わないとクソ運営だとか言われたものだ。まあ廃人の側では実生活を犠牲にしてまでゲームにのめり込んでいるのだから特別待遇を要求をするのは当然ではある。だが困ったことには、運営としては廃人にたくさん時間を使ってもらったところで別に何も嬉しくないのだ。

だからその交換を、形はそのままにそっくり貨幣化してしまえばいい。時間・対・強アイテムの交換でなく、金・対・強アイテムの交換にしてしまえばいいのだ。これがアイテム課金モデルの基本発想である。

このモデルは成功しないわけがない。そもそも、月額課金の大規模MMO時代から、というかそれ以前のMO時代からして既にアイテムのRMTは観察されていた。運営としてはこの非正規経済を単に正規化すればいいのだ。強アイテム一個おいくらです、それより強いアイテムは、少々増してこの値段です。

で、これがあまりにも儲かるので、運営としても月額課金とかはバカらしくなった。それ以前にユーザーの囲い込みに成功してたとこ、あるいは別方面でブランド力を持ってたとこを除いて、00年代後半以降のネトゲは基本無料・アイテム有料という課金体系に移行していったように記憶する。

するとどういうことが言えるか? なんと、ネトゲはゲームとしてクソなほど儲かるということになりそうである。というのもわれわれの論によれば、月額課金モデルというのは自由性の楽しみに月額課金、共同性の楽しみに無課金という課金体系だったわけだが、これと対照して述べるなら、基本無料アイテム課金モデルは、自由性の楽しみに無課金、共同性の楽しみにアイテム課金という体系だということになるからである。自由性の楽しみに安住されると運営としては困るのだ。そして自由性の楽しみの苗床とはゲームそのものにおけるインタラクションであったから、運営のすべきこととは、ゲームそのものを無料なままでは出来っこないストレスフルなものへと改悪していくこととなるはずなのだ。

この過程は戦場をケータイ・スマホに移して全盛を迎える。モバゲー・グリーが世を席巻する。ゲームとしての面白さなどどうでもよいのだ。俺はただあのレアカードを所有し、誇示し、愛し愛されてこの心の渇きを潤すことをこそ欲している。そこを正確に見極めたからこそ、モバゲー・グリーは一世を風靡したのである。

誰も溺れないように

だがそれはずいぶん空しいゲームではないだろうか。ここにおいて皆が取り組むのはゲームとして面白くないゲームなのである。さらに言えばこの集団的熱狂は実は人に満足をもたらさない。上には上がいるのだ。俺があるゲームにちょっと金を突っ込んで少々の満足を得ても、そのゲームのスレを見ればもっと素晴らしげなアイテムやカードを見せびらかしてる人がたくさんいるのである。その人たちにしたって満足し切ってるわけじゃない。そこで見せびらかされてるものなんか、どうせ数ヶ月もすれば陳腐化してしまうんだ。新たなる欲望が常に人々を襲い浚うのである。またしても、ネトゲは関わる人間全員を不幸にする*7

そこで艦隊これくしょんなのだ*8

艦隊これくしょんのポイントは、ここでの整理の中に無理やり位置づければ、基本無料アイテム課金モデルのゲームに、自由性の楽しみを再装備させたという点にある。タダでもそこそこゲームとして成立してるものを作ろうという発想なのだ。

これが面白いのだ。艦隊これくしょんは面白い。

面白い上に素晴らしい。現状の艦隊これくしょんは、自由性の楽しさと共同性の楽しさとを奇跡的なバランスで両立させている。ちょろっと図鑑を見て艦娘の声を聞く。それだけで超イイ。あるいはまた演習でずらっと並んだ改造済み金剛級を見かける。燃える。両方合わさって超楽しいのだ。

だが、うまいことバランスした二重の楽しさという艦これのこの魅力は、実は非常に危ういものでもある。われわれはこのことによく目を凝らさなければならない。

まず疑問に思われるのは、そもそもなんで基本無料ゲーなのに自由性の楽しみを再装備させることができているのかということだ。まあこれについては頭のいい人たちがあれこれ考えてくれている。そのようなアクロバットが可能になっている背景には、広告で儲けるとか、メディアミックスで儲けるとかの新たな手法とかとかが関係しているじゃなかろーか云々。俺としてもそのような説明のリストに更なる一新仮説を付け加えるつもりはない。まあ、真相はそれら説明の、どれかでもありまたどれでもないんだろう。

それよりもわれわれにとって、というか俺にとって重要なのは、自由性の楽しみと共同性の楽しみとが奇跡的に同居しているこのゲームへの関わり方を間違えないことだ。というのも、ゲーム・運営の側で自由性の楽しみと共同性の楽しみとを両取り可能に設計してくれているからといって、俺の側がひとたび関わり方を間違えれば、その幸福な両取りは不可能となってしまうからだ。

そして、例えば大和を進水させた提督を羨ましがって、米帝面へ堕ちようとしていた一昨日夜の俺は、その意味でかなり危うい地点に立っていた。米帝*9がいけないということではない。他者への羨望からする米帝化は、無際限の欲望昂進へと簡単に転化し、結果的にゲームそのものを楽しむ心を忘れさせてしまうのだ。モバゲー・グリー的物象化である*10。俺はこのゲームではそうはなりたくない。艦これというゲームには、その、なんだろう、もっとそれ自体に何かプレシャスが潜んでいる気がするんだよ。それを忘れたくない。

だから俺は、一昨日夜には艦隊これくしょんになら殺されても構わないとちょっと思ってたわけだけど(重課金の海に沈むか、一日中画面に張り付いているか、どちらかに成り果てるということである)、今やはっきりと艦隊これくしょんに殺されることを拒否したい。艦隊これくしょんというゲームは、人を殺さないこの世ではじめてのネトゲになり得るものだからだ。われわれはそのような奇跡の種を、全力で護り通してやろうと思うのだ。

われわれはいとも容易く艦隊これくしょんに殺されることができる。艦隊これくしょんは面白いから。しかしながら、艦隊これくしょんに殺されるということは、リアル札束での殴り合い宇宙へと自らを送り返すということであり、つまりはネトゲの発展史の大いなる一ページを逆向きに辿り直すということなのだ。われわれは後ずさるよりは前を向いて歩いていきたいと希う者だ。そうであるならわれわれは、世界史を正しい方向に前進させるために、艦隊これくしょんに対して、自堕落に耽溺していくというのでない仕方で関わっていかなければならない。

人間精神の名誉のために。

跋文と関連記事

……という電波的な偽史を、以上、ネトゲをほぼやってこなかった人間が伝聞から妄想を膨らませてお送りした*11。真顔で大法螺吹くのは結構楽しいものだ。というわけで、真面目なゲーマーの人はこのエントリに対しキレる権利が大いにあると思うので、バカにしたり突っ込んだり、各個に各自の正義を貫いてほしい。個人的にはそんなに変なこと言ったつもりはないんだが、こういう大風呂敷系の言説にはどこかにびっくりするような虚偽が含まれているに決まってるのだ。

また、このエントリは、結局艦これの話にはあまりならなかったが、このブログ的には一応艦これ三部作の完結編なのである。その前二作というのが以下。

艦隊これくしょんが面白い - pathfinder
艦隊これくしょんに殺される - pathfinder

一個目のやつの熱病に罹ったかのようなテンションは今読むと結構恥ずかしい*12。恥ずかしいのでとりあえず、黙って2-4攻略に戻るとします。

*1:もちろん個々人の側ではこの傾向性を他人に利用されないように意識的統御が必要であるとはよく聞く話だ。

*2:あくまで傾向性の話である。「いや俺出世したくねーし」みたいな反応をされても困る。

*3:まあ2chは、もともとからして見るところから見れば丸見えだし、また大抵の大規模板でID表示が強制されるようになった昨今では誰にとってさえそんなに匿名ではなくなっちまったという話もある。実際あんまアホなこと書き込みまくってると必死チェッカー辿られて晒される。まあでも、日付変わればみんな忘れてくれるので、やっぱギルドが成立する余地はないのだ(といって専門板ではギルドっぽいことになってる例はたまに見るから、実のところ匿名性なんかよりスケールとか流動性・移動性の方が大事なのかもしれない)。

*4:断っておくと、ここではいわゆる廃人・廃プレイヤーと呼ばれる人たちを人格的に非難しているのではない。ここで主張しているのは、第一に他人に対する優越感情等々を悦びとともに享受する人々がいるということであり、また第二にネトゲでそのような悦びを獲得するためにはまず廃人・廃プレイヤーとなっていなければならない、ということである。廃人だからクズなのではなく、クズとして十全に振る舞えるなら廃人なはずだということだ。

*5:自由性と共同性との対立というこのことは、あくまで概念的な話である。現象論としては新参が共同性の楽しみを享受するということも大いにあるのだ。だが全般的傾向としてはどうか? 全般的・大域的には、本論で示したような構図が観察可能なのではないかというのが本稿での俺の基本的視角である。ちなみにこの根本主張に根拠は特にないことに注意。一個の世界観として受け取ってほしい。

*6:そろそろ気付いてると思うけど、俺はゲラゲラ笑いながらこのエントリ書いてて、だからここに書いてあることはだいたい出まかせです。真に受けないでください。

*7:運営だけは幸福ではないか? そんなことはなく、実際には運営の特に実働部隊はなぜかめっちゃミゼラブルな状態に陥っているのである。同種ゲーム間での客の取り合いがよほど激しいのだろう。

*8:あとはまあパズドラが大きいのだろうが、あいにく俺は手を出していない。

*9:いわゆる廃課金。

*10:これについても、モバゲー・グリーがいけないというのではなくて、そのゲームへの関わり方が難しいということである。

*11:俺はネトゲに興味を持っていた頃には金を持っていなかったので、主にβテスト渡り鳥をしていたのである。なのでゲーム内で親密な知己を作って、わいのわいの楽しむという経験があまりない(少しはある)。それらの少し外側から、それらを羨ましがって眺めていた。その辺の個人的事情が、このエントリの全体的調子に投影されてないとは、断言できない感じになったね。

*12:とはいえさすがに今日のこの記事よりは恥ずかしくない。