pathfinder

世界を暴く

正義の味方のみじめな卑小さ

王宮で怠惰に禄を食もうと名乗り出てくる男どもをばっさばっさと薙ぎ払ってく人事官であるあなたのもとに、今日も二人の男がやってきた。両人のことを仮にA、Bと呼んでおこう。

Aは北の寒村出身の若者だ。武官志望というが筋肉には乏しく、時折覗くカンのよさを除けば身体技能的に秀でている点は何もない。出身村の長以外の誰からの推挙も受けていないというのは、列侯の影響力を感じさせないという点ではいまどき逆に好感触なくらいだが、怪しさ満点であることに変わりはない。多分北方の王国の間諜か何かだろう。志望動機を尋ねてみたところ、民草の救済と世界平和であると答えていた。ただしそれを実現するための計画や技能を持ちあわせている様子は特にない。アピールポイントは熱意であるという。

Bはというと、南方の大学都市に生まれ、その地で学問を修めてからわが国に転じてきた人物で、文官志望である。冶金術に詳しく、鉱工業の盛んなわが国でその才を活かそうと仕官を希望してきた。大学都市に嫁したカトリーヌ様からの推挙も受けている。私講師をしていた大学を放校になったという経歴が少し気にかかるが、本人から受ける印象は純真そのものといったところで、放校処分というのも学内政治の禍か何かの間違いなのではないか。

さて、あなたは二人のうちのどちらか片方を王の前での殿試に進ませるのでなければならない。A、Bどちらを選別すべきだろうか。ただしAは正義の味方でBは悪の技術者であるとする。


何が言いたいのかというと要するに次のことだ。正義の味方が場当たり主義の受け身体質であるのに対し、悪役というのは目的意識的である。受動的な前者に対する能動的な後者と言い換えてもいい。

このことはおそらく単なるあるあるにとどまらない。正義の味方が受動的で悪役の方が能動的であることには本質的な理由がある。すなわち、正義という観念が多くの場合「悪の回避」程度の空虚な形式としてしか示されないのに対し、悪の観念は必ず内実を伴う(われわれが害したくなったり犯したくなったりするのは常に個別のあれやこれだ*1)ということである。

このことが正義の味方と悪役とを態度において隔たらせるのだ。なぜなれば人がリアルに志向できるのは個別具体的なもののみだからである。個別具体的な目標を持たぬ正義の味方は消極的な観念論へと撤退していき、悪役のみが目的意識的に振る舞うことを許されるのだ。


今の話には反例があるとの指摘があるかもしれない。例えばあの作品に登場するあの男は正義の味方であるけれども非常に行動力がある。なるほどなるほど。その通りかもしれない。というわけで正義の味方が受動的だというのは絶対的な話ではない。能動的な正義の味方というものが存在しうる。だがどのような資格で?

ポイントは「人がリアルに志向できるのは個別具体的なもののみだ」という措定である*2。要するにある人が能動的であるならばその人は一般的抽象的なものではなく個別具体的な何かを志向しているということだ。

このことからして俺は自説に次のような付則事項を加える。能動的な正義の味方は存在し得るのだが、そいつは正義の観念に具体的な実質を充填することに成功した、稀有なる正義の味方なのだ。「多くの場合」正義は「空虚な形式」だったわけだが、ひとたびそれが実質的なものとなれば、正義の味方だって能動的にもなれるのだ。


だが、そもそもわれわれはなぜ「正義は多くの場合空虚な形式である」という措定を置かねばならなかったのか? これは俺の勝手な思いこみではないはずである。実際このことは多元主義的かつリベラルな社会に生きようとする(ないし、生きねばならぬとされている)われわれの生のほとんど前提だ。

多元主義的かつリベラルな社会は、世に流通する諸正義を限りなく形式的に限りなくホロウにしていかねばならない。なぜなればその社会にとっての最大の課題は、特殊な正義の暴走をいかにして防ぐかということだからだ。ここで「特殊な」とは、一部の人間にのみ妥当する、という程度の意味に解してほしい。

正義の味方が能動的になるに当たって活用された個別具体的な正義とは、例えば、あいつやこいつという具体的な個別者を、あれやこれという個別的な理由ゆえに護ってやるべしというものである。これは、それ自体自動的に特殊な正義であるというわけではないが、それでもそれへと堕す危険が、すなわち一部の人間の特別扱いを導く危険が非常に大きい。そして特殊な言い分の過剰な横行はリベラルな社会に対する最大の脅威であるから、その種の正義は一般的・普遍的な正義に反するのだ。「能動的な正義の味方」は、われわれの社会全体に準拠して見た場合、実は悪役(独善家という種類の悪役)であったということが多い。


以上より俺はやや性急に結論するのだが、現代の正義の味方は無力であるか独善的であるかのいずれかである。独善家と悪役だけが決然と自らの目標を追求することができる。要するに人は決断主義者にならなければならない*3。といっても他の決断主義者と戦うためにそうならねばならないのではない。決断をしなければ能動的になり得ないから仕方なく決断的になるのである。決断主義に対してマイペースに生きろよという説得が実は無効であることがここから分かる。マイペースに生きるというのが既に決断なのだ。話が逸れた。われわれが次に知りたいのは以下のことだ。以上の枠組みを受け入れたとして、無害な決断家というものを目指すことは可能だろうか? また以上の枠組みをもう一度描き直して、能動的な正義の味方の余地を確保することは本当にできないのか? 事ここに至って俺は抽象論を進め過ぎたことを自覚する。無害な決断家なるものと能動的な正義の味方なるものとの差異というものはどうしたら測れるのかさえ不明である。この話は具体的な人物に受肉させられて語り直されるのでなければならない。そう、例えば……。


(最後に但し書き。このエントリにおける「正義」語の使い方は、日常語にかなりよりかかったものとなっている。だからこのエントリで書いた話は現代正義論*4に接続できるものではなく、したがって正義論屋さんの人たちにおかれましてはどうか見逃してやってください。なお、論行自体については言葉を「価値付け」とかに置き換えれば通るんじゃないかなあ? と考えているが、どうか)

*1:例外として「悪をなすために悪をなす」型の犯罪者像を挙げることができるが、そういう人物類型というのは高度に文脈化された差異化ゲーム(「俺はこういう悪役を登場させたぜ」「それって某の某に出てきたアレじゃね?」「いいや、これこれの点でそれとは異なる悪だぜ」)の果てに出てくる発明品でしかないと思う。つまり、そのゲームに知悉してるわけでもない大多数の人間にとっては、ふーんそうですかと言ってすませてしまって問題ないんじゃないか。

*2:この措定は俺には十分常識的なものと思われるのでこのエントリでは特段の正当化論証をほどこさないが、実際のところ争われ得る主張のはずだ。要検討。

*3:この「決断主義」は、巷間よく使われてる宇野のものとは意味が異なる(「決断」の水準がズレてるので、宇野においては可能なまったりによる逃げ〔ってうろ覚えで言うんだけど、たしかそういう方向だったよね?〕が、俺に言わせれば不可能なのである)。じゃあどういう意味なんだよ? ってことについては、またいずれ書く、かもしれない。一言だけ言っておけば宮台の「主意主義」に近い使い方をしているつもりでいる(だから多分シュミットにも先祖返りしてるはずである)。

*4:自分ではむしろ古代の正義論には近いんじゃないかと思っているが、どうか。