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世界を暴く

見田宗介と黙示録

ロレンスを読み返したらかなり面白かったので、続いて吉本隆明のマチウ書をめくり直しているんだが、謎が多くなかなか進まない。その間にロレンス・吉本双方の主張を検討してる見田宗介の方を先に読み終わってしまった。なので今日はその紹介。参照したのは上に貼った著作集VII巻。見田のユートピア論が集められてる。ロレンス・吉本に直接関係するのは「二千年の黙示録」「交響圏とルール圏」だが、他の稿の方が以下に見るような図式っぽくはある。

見田宗介という人は、有名なものをいくつか読むと疎外論ぽい話をしているように読める。われわれは相互に相対立する欲求を持って産み落とされてくる。だから人の世に暴力と支配と抑圧と欺瞞は絶えない。近代という時代は商品交換とか人権思想とかによってそういう残酷を軽減したけど、そういう制度はいまや人をモノのように扱う官僚制の鉄の檻と化して新たにわれわれを苦しめる。市場や市民社会が求める俺の存在が俺の本来の存在から乖離してくる。疎外だ。だからコミューンつくって、残酷も疎外も一緒くたに揚棄するしかないってことになる。人間の解放がなされねばならない*1

しかし、そういういわば社会哲学者見田宗介見田宗介のすべてなのではない。彼には社会意識の研究者という顔もある(というか、社会意識論という謎分野を、彼がつくったのである)。純粋に事実の問題として、われわれは諸々の事物についてどういう意識を持っているか。そういうのを、新聞の投書欄とか流行歌の歌詞とかに訊ね探っていくのである。有名な「理想の時代・夢の時代・虚構の時代」の区別などもその成果として出てくるわけだ。まあ、そういう大風呂敷系はこの場では論評不能だけど、「現代における不幸の諸類型」なんかはいま読んでもなかなか面白いところがあると思う。

ここでは見田の社会意識論の具体的内容にこれ以上踏みこむことはしない。言いたいのは、見田は社会を論じるに際し、以上二つの顔を併用しているということだ。例えば「まなざしの地獄」などが典型的にそうである。これは永山則夫を扱った論考だが、一見すると、永山則夫はかく疎外され射殺魔になった、みたいな社会哲学的考察が書いてあるように思える。だがそれだけじゃないはずだ。そうじゃなくて、永山則夫はかく疎外され、それゆえかく意識し、しかしその意識と存在との狭間で蹉跌を味わい、射殺魔になった。そのようにまとめた方がこの論考をいっそうよく理解できるはずである。単なる社会構造の話ではないのだ。社会構造・と・意識におけるその実存的意味、という、二重の語りが見田の社会論の基本的構図なのである*2

そして意識は屈折する。パンをよこせと叫べばよさそうな時にあってさえ、人は自罰に沈んだり神に縋ったり隣人をdisったりしてしまう。この屈折が人間の現実である。この認識により見田は疎外論者でありながら単純な革命家ではありえない。存在を変えようと企図した意識は屈折するから。革命はほとんど必ず裏切られて恐怖政治の残酷を導くから。それが人間の現実であるから。

そのような屈折をどうにかして回避することはできないだろうか。

ようやく黙示録の話に入ることができる。見田にとってヨハネの黙示録は二重の意味を持つように思われる。ひとつには革命の矛先を屈折させる悪しき意識の型の典型としての意味。そしてもうひとつには、解放がなぜ挫折せざるを得ないかを示した社会思想としての意味だ。

前者から述べていこう。ヨハネの黙示録とは二千年近くにわたり読み継がれてきた原始キリスト教の黙示文学である。そこでは「大バビロン」の破滅が預言されている。これは要するにローマのことなんだが、より一般化して言えば現世的な富と権力とを掌握する帝国の中枢のことである。いま、原始キリスト教はこの帝国に虐げられるものとしてある。だがいつの日か忽然と実現した神の権力がこの帝国を破滅させ、地上には至福千年が到来し、キリスト者は迫害者たちに対し復讐を遂げるだろう。だから祈れよ祈れ、いずれ来る黙示の日を想いて今日の迫害に耐え、汝らキリスト者は祈りたまえ。これがヨハネの黙示録の思想である。

要するに現世的解放の直接的実現を諦めて、観念的な復讐に逃避するわけだ。右の頬を打たれたならば笑って左の頬も差し出してしまえ。いつの日か吹く裁きのラッパの音を想えば、暗い笑いも自然とこぼれるだろう。

もちろん見田がこのような意識の型、というより情念の型を認めるはずもない。右の頬を打たれることは単に不正である。社会を変えて、そのような不正を取り除こうと試みるべきだ。それゆえ見田は一方では、解放のための試みを挫くありがちな陥穽として黙示録的な情念定型を指弾する。人は放っておくと観念的復讐の幻影に逃避してしまう。だから世の解放を志す者は、この陥穽を自覚して、回避するよう努めようと述べるのである。見田のこのようなイデオロギー批判は「ユートピアの理論」などに読むことができる。

だが他方で、見田はヨハネの黙示録を別なる仕方で読んでもいる。「関係の絶対性」という思想を提示した書物として、だ。

関係の絶対性とは何か。この言葉は、人間存在とは社会的諸関係の総体であり、かつまた現実とは物質代謝という関係の総体であるというような(われわれの耳にはやや時代外れに聞こえる)背景理論を下敷きに書き付けられているようである。例えば俺は誰か。俺は善良であり、美少女であり、会った者全員を魅了せずにはおかない天使のような存在なんだが、しかし同時に先進国日本人すなわちローマ市民でもある。うまいものを食っては残りを残飯として棄てている。そのような社会的自然的諸関係の総体としても俺は存在している。そしてそのように対他存在する限りで、俺は帝国の方々で隣人に売られ処刑されゆく原始キリスト教徒すなわち世界中の棄民たちから蛇蝎のごとく恨まれる。俺の内面が天使か悪魔かなどということは問題にならない。俺は彼らと対面すらできないからだ。対面可能な共同体の範囲を超えて、言語・権力・貨幣にて非対面的に交通する以上、俺は俺としてでなく俺と世界とが取り結ぶ関係において彼らに対して存在する。彼らの側でも俺のことを、俺においてでなく俺と世界とが取り結ぶ関係において量り裁かざるをえない。関係が絶対である。これが関係の絶対性という言葉の意味だ。

先に、存在次元での矛盾を匡そうとする努力が、意識次元で忍従と観念的復讐の情念定型に絡め取られて挫かれるということを見た。なぜそのような情念定型が出てきてしまうのか。いま答えは次のように与えうる。存在が意識を規定し、そして共同体を廃棄した近代人は関係的な存在だからだ。古代資本主義の爛熟を極めた元老院およびローマ市民は、原始キリスト教徒たちを顔も合わせず殺すことができる。また絢爛豪華な王宮から、黙示録を愛唱する第三階級は寒きも顧みられず搾取される。聳え立つ摩天楼からジャングルに砂漠に爆弾は降る。彼とかこれへの怒りは彼やそれを殴れば発散しうる。殴れなくとも合理化できる。しかし遠隔的な・媒介された・関係的な怒りはそのような発散を許さない。発散しようのない怒りこそ絶対的である。関係の絶対性。そしてこの絶対の怒りが解放の希望を否定性の歪みで塗り込めてしまうのだ。遠隔的に根こそぎに収奪された個人たちの存在こそが意識の屈折を生み、存在解放への途を閉ざすのだ。かくして解放は……それなら解放は……。

それにしてもそのことを示してしまったヨハネの黙示録とはやはり偉大な書物かもしれない。見田はそのように示唆するが、とはいえ彼の感謝は黙示録の著者には向かわない。見田が感謝するのはむしろ黙示録の解釈者たちに対してだ。書き手さえ意図していなかった思想風景を黙示録のうちに立ち上がらせたのは彼らだから。その解釈者のうちの一人はロレンスである。見田は黙示録の現実逃避的権力欲に対する視座をロレンスと共有している。だが見田が黙示録を見るに足掛かりとする立場はもう一つあった。関係の絶対性という思想である。そしてその思想こそは、もとはといえば吉本隆明新約聖書マタイ書のイエスから抉出してきたところのものなのである。われわれはいまや吉本隆明に向かわねばならないようである。(続く)

人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は撰択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。(「マチウ書試論」)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

以上で要約したのは見田宗介の、特に70年代の思想である*3。最後に補論的に、見田について俺個人の思うところを書いておきたい。

まず言うと、見田は社会哲学者としては敗北しただろう。彼の疎外論は「社会が人をモノとして扱うようになった」というテーゼに基礎づけられるわけだが、その基礎は70年代にはマルクスサルトル流の経済・社会理論に求められ(→『現代社会の存立構造』など)、90年代以降にはポストモダン的な消費社会論・情報化社会論に求められている(→『現代社会の理論』など)。このうち、前者についてはトリヴィアルな意味で真である可能性がなお残されているだろうが(とはいえ有用な将来予測を生みえないので社会科学的ツールとしてはまずいと思うが)、後者については粗雑なアナロジー以外完全に論証を放棄してて終わってると思う(例えばこの記事→思想界のリビングレジェンド・見田宗介(東大名誉教授)から3.11後を生きる若者たちへのメッセージ。「人間はようやく地上に〝天国〟を実現する段階に達した感じがします」 - インタビュー - 週刊プレイボーイのニュースサイト - 週プレNEWS)。

そして、存在が関係的だとかいう話の基礎がそのような怪しげなものなのだから、関係の絶対性みたいな話もかなり眉唾なんじゃないかと俺などは近頃思うのである。これは次の記事で書くけどね。

しかし見田が設定した構図までわれわれは棄ててしまうべきではないだろう。意識は存在に拘束され、そのことでもって存在レベルでの問題はいっそう解き難く固着する。見田が提起したこの問題は真性の問いである。たとえ見田の「存在」把握がどれだけぶっ壊れていたとしてもだ。われわれはマルクス主義とかカスタネダとかポストモダン思想とかを退けるついでに、見田宗介のすべてまで退けてしまうべきではないだろう。われわれがなすべきことはむしろ、今日的な社会心理学等々の知見を活かすことによって、見田の設定した問題系に対してより生産的な応答を試みていくことであるだろう。

まなざしの地獄

まなざしの地獄

*1:注意すべきは、見田の構図では「自然に還れ」「かつて在りし理想状態に還れ」と言うことは決してできないという点だろう。彼には自然状態とは地獄である、という、いわば原罪の思想がある。他方で社会状態もまたひとつの地獄(まなざしの地獄)であるからして、救いはコミューンに求められるしかない。

*2:ただし、「まなざしの地獄」のターミノロジーでは、「意識」という語は直接出てこない。「対自(対自存在)」とか「精神」という言葉によって似たような話が展開される。ような気がする。これが似ているだけで違う話なのか、それとも厳密に同じ話なのかは要検討。

*3:宮台真司などは見田は非転向だと主張しているが、俺はそれは誤解を与える表現だと思う。確かに見田は一貫して意識の解放を目指してるんだけど、意識の解放を妨げる存在の桎梏についての把握を90年代に至って大きく変えている。本論でも述べるように、存在の根こそぎ性の基礎が亜流的マルクス主義から消費社会論・情報社会論に移されているのだ。これはほとんど転向と言ってもいい変化だと俺には思える。