pathfinder

世界を暴く

ラディカリズムの条件

ひととひとを噛みあわせる曲芸師が
舞台にのせようとしてもおれは信じない
殺害はいつも舞台裏でおこなわれ
奈落をとおって墓地に埋葬される けれど
おれを殺した男は舞台のうえで見得をきる
おれが殺した男は観客のなかで愉しくやっている


おれは舞台裏で
じっと奈落の底を見守っている けれど
おれを苦しめた男は舞台のうえで倒れた演技をしてみせる
おれが苦しめた男は観客のなかで父と母とのように悲しく老いる


昨日のおれの愛は
今日は無言の非議と飢えにかわるのだ
そして世界はいつまでだっておれの心の惨劇を映さない
殺逆と砲火を映している
たとえ無数のひとが眼をこらしても
おれの惨劇は視えないのだ
おれが手をふり上げて訴えても
たれも聴えない
おれが独りぽっちで語りつづけても
たれも録することができない


おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ
おれが讃辞と富とを獲たら捨ててくれ
もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ


吉本隆明「恋唄」)

1.

悲愴な調子の最終連によって、いくつかある同名詩篇のうちでももっとも有名と思われる「恋唄」であるが、目につく言葉だけ拾って「世界平和かぁ……」「革命かぁ……」みたいな感慨に浸るようでは断じていけないと全体を見れば即座に察せられる。この詩を貫く詩的認識は革命等々など不可能だという荒涼たる諦観である。無論詩人が言おうとすることはそれだけではないのだが、先を急ぐ前にさしあたり、この否定的感情の構成されるさまを確認しておきたい。

手順としては第三連に注目していくところから始めるのがいいだろう。第一・二連は意味伝達の面からいうとこの第三連での全容開示に向けた謎めかし的ほのめかしという感じが強く、直接の読解に向くものではない。

その第三連、詩人が組み立てる詩的風景は次のようなものである。殺逆・砲火が世界の側・無数のひとの側にある。対して、独りぽっちのおれの側には心の惨劇と昨日の愛だ。世界は悲惨の支配するところとしてあり、かつまた「おれ」の内面世界も凄惨なものであるようだ。

だが、詩人が数え上げている悲惨は以上の二つに尽くされない。三連五行以降を見てみよう。そこで言われているのは、なによりの悲惨とは世界の悲惨とおれの悲惨とが断絶してるというそのことなんだ、ということではないだろうか。「たとえ無数のひとが眼をこらしても/おれの惨劇は視えないのだ」。この怒りは自己の悲惨についての怒りではあるまい。自己の悲惨が伝達されないというそのことに対してこそ詩人は苛立ちを隠せない。

つまりここには三つの悲惨がある。第一に世界の悲惨、第二に「おれ」の心の悲惨、そして第三に世界と「おれ」との断絶という悲惨である。そして詩人が重視するのはこのうち特に第三の悲惨であるようだ。一・二連に戻ればそのことは見通しやすい。

一・二連を秩序立てるのも、第三連と同じく世界と「おれ」との対立である。世界とは舞台-客席の共犯関係であり、それと対峙する「おれ」は舞台裏にいる。対立の賭金はというと、悲惨に関する認識であるようだ。すなわち、舞台-客席のひとびとは悲惨に気づかずのうのうと暮らしているが、舞台裏にいる「おれ」だけは奈落の底を見つめて苦しんでいる。

注意をうながせば、これは「ひとびとは幸せだがおれは不幸だ」という話ではないはずである。詩人によればひとびとだって実際は不幸なのだ。二連四行、「おれが苦しめた男は観客のなかで父と母とのように悲しく老いる」のである。ひとびとが「おれ」と断絶するのはむしろ次の点である。一連六行、「おれが殺した男は観客のなかで愉しくやっている」のだ。ひとびとは悲惨に気づいてないが「おれ」は気づいている。「おれ」とひとびととは、存在においてでなく認識においてズレている。

といって、これは「おれ」が認識的に特権的だという話でもないような気がする。第三連、「たとえ無数のひとが眼をこらしても/おれの惨劇は視えないのだ」を喚び戻そう。これは文字通りには「誰もおれの悲惨をわかってくれない」との謂いだ。だがこれを裏返すところから、次のように言うこともできるのではないか? すなわち、「他人の悲惨をおれはわかってやれない」、さらには「誰も他人の悲惨の本当のところなどわからない」と。われわれはこの拡張を採用したい。詩人の言わんとすることは、ひとびとは幸せだがおれは不幸だという僻みでもなければおれだけが世界の真実を掴んでいるという傲慢な宣言でもなくて、心情について一般的・共約的・客観的観点を取ることは難しいという悩みなのだと考えたい。世界という舞台のカラクリを「おれ」ひとりが特権的に認識しているとするのではなく、他人の舞台裏なんて見透せないというのが人の運命だという認識がここで示されていると考えたいのだ。そのように考える理由がさしあたり与えられていないことはこの釈義に踏み切ることを躊躇させるが、この決断が読解の全体からして後付け的に正当化されるということをわれわれは信じている。

というわけで小括としてあえて断言してしまえば、人は絶対的に孤独であるというのが詩人の認識なのである。

舞台俳優の本当のことを観客は理解しているだろうかできるだろうか? してないしできないだろう。あるいは舞台から観客を眺めてなにかがわかるだろうかわかりうるだろうか? わからないしわかれないだろう。誰も他人のことわからないですよ。誰もわからない。人は孤独である。

それをわかったなどと嘘つくからおかしなことになるのだ。そしてそういう嘘を流通させてるやつがこの世にはいるのだ。詩人はそいつらのことを「曲芸師」と呼んでいるが(第一連一行)、性急に断言してしまえばこれは軍国主義者のことであり民主主義者のことであり共産主義者のことである。われわれは君のことよくわかってる君は皇国の臣民だから。われわれは君のことよくわかってる君は市民の一員であるから。われわれは君のことよくわかってる君はプロレタリアートだから。だから手をつないで仲よくしましょうさあ一緒に。嘘だ嘘だ嘘だ。おれは誰とも手をつないでやるものか。

では愛は? では平和は? では革命は?

われわれは結論を急ぐあまりに誤った袋小路に迷い込んでしまったようである。詩人は確かに人は孤独だと言っている。しかしその運命を絶対視してはいない気もするのだ。最終第四連を見よ。「もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ/もしも おれが死んだら世界は和解してくれ/もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ」。

われわれは「人は絶対的に孤独だ」という認識が獲得される経路をもう少し丁寧に辿りなおした方がよさそうである。最終第四連の末尾三行を見ればわかる通り、詩人は他者とのコミュニケーションについて希望を捨てていないようであるから。詩人が孤独を歌い上げるに至るまでを追跡することで、孤独の回避策も見えてくるだろう。

2.

詩人は自己も世界も諦めていないだろうし、世界との連結だって諦めていないだろう。最終三行がある以上、これは動かしがたい読解であるように思う*1。だがこれまで見てきたところでは、詩人が歌い上げているのは世界との断絶ということであり孤独という運命なのだった。二つながら現界する希望の相と哀嘆の相。それらの疎隔をどう調停するかがいまやわれわれの目標だ。

戦略としては、詩人にとっての孤独の意味をよりつぶさに見ていくというのがいいと思われる。すなわち詩人が悲観主義に向かう理由をよりつまびらかに追っていくということだ。この詩人が世を儚んでいないということもまた偽な以上(それは一読して明らかだろう?)、悲観を拡大していくことでその内部に楽観を導く希望を発見していくという方向にしか光は残されていないからだ。

考えるための材料は第三連に示されている。そこで言われているのは、一・二行、「昨日のおれの愛」が「今日は無言の非議と飢えにかわる」ということである。これは大きなヒントである。

注目すべきは詩人の絶望感覚が時間の中での移ろいとして提示されていることだ。彼の絶望は単なる絶望ではないだろう。過去のポジが現在のネガにそのまま反転してしまうということがこの絶望の正体だろう。彼は幻滅しているのである。昨日のどんな希望も今日には裏切られてしまうという幻滅の認識はそして、彼の絶望=孤独を基礎づける。

続く三・四行へ進んでみる。ここで示されるのは、昨日のポジが今日のネガへと変転してしまうことからくる幻滅感覚の、未来方向への正確な投射である。「そして世界はいつまでだっておれの心の惨劇を映さない/殺逆と砲火を映している」の力点は「いつまでだって」に置かれるに違いない。過去の希望は今日裏切られ、未来永劫、未来永劫、回復されることはないのである。詩人の悲観主義がここに確立される。

悲観の理由は明示的には書かれていない。が、わからないわけないはずだ。誰だって知っているが、昨日の希望が今日裏切られたという希望から失意への情動的急降下は、世界のすべて、未来のすべてを黒々と陰惨に感受させるに決まっている。「昨日のおれの愛は/今日は無言の非議と飢えにかわるのだ」……切に希望を抱いたからこそ夢破れた心はとても切ない。ついでながら吉本隆明の生活史を辿ると、この「恋唄」が書かれた時期は恋愛上の苦境と職場での孤立に重なっている。そのことから「愛」の具体的内容へと迫っていく興味も首をもたげないではないけれど、われわれの目下の任務には関係がない。

話を戻す。幻滅・失意を基礎としての現在から未来にかけての悲観主義、という以上の理解を踏まえれば、五行以降の仮定表現たちも、必然性を帯びたものとしてより有意義に感知されてくるはずである。「たとえ無数のひとが眼をこらしても/おれの惨劇は視えないのだ」。このような予示をなしうるのは「未来は好転しない」という認識に立つ者だけだ。ここで行われているのはお涙頂戴的な内面表出などでは断じてなく、詩人の悲観主義の再提示と再帰的強化なのである。

そろそろ結論をつける段であるが、その前に、以上見てきたような時間感覚と、万人の絶対的孤独という思想との関連性について書いておく。先にわれわれは、人の絶対的孤独ということを言う詩人が、その同じ口で愛とか平和とか革命とか言うことを訝った。口に出しこそしなかったが、詩人はこの詩篇で、口当たりのいい言葉を支離滅裂に陳列しているだけなのだろうか、という疑念だって射したものである。しかしいま、詩人が孤独と革命とを同時に歌い上げることの必然性は明らかだ。詩人の悲観意識は過去に抱いた強い強い思いが裏切られてしまった幻滅感覚・失意の感覚にその基礎を持っているからだ。「人は絶対に永遠にわかり合えず孤独だ」という悲観意識は、過去、強く強く人との理解と結合を希ったればこそのものだったのである。愛や平和や革命を言うその同じ口が孤独と言うからこそ、その孤独は絶対的なものにして永劫のものであるという措定が切実なものと響くのである。

まとめれば次のようになる。愛抱いた過去、裏切られた現在。この失意の感覚が詩人の未来展望のすべてを黒く塗りこめている。未来は明るくなりなどしない。以上が詩人の悲観主義の構造である。

3.

といってわれわれの疑問は全然解消されていない。われわれが知りたいのは、詩人の悲観主義の内から、どうやったら最終三行の力強い語りかけが生じうるのかということなのだった。その答えはいまだまったく明らかでない。どころかますます遠のいた気がする。詩人の悲観主義を検討していく中で明らかになったのは、孤独が永続するに違いないという認識が失意の経験という情動的基礎を得ていっそう強固に固着するというさまだったのだから。希望の余地はどこにもない、ように思われる。

だが、まさしく悲観のこの強固さこそ、最終三行の呼びかけを呼び寄せるのだ。鍵を握るのは悲観の全面性である。

詩人はまみれた敗北の手痛さゆえに、未来のすべてを悲観せずにはいられない。その具体的なありさまは第三連に容易く確認できる。反復し強調される「たれも」は、悲観の全面性の符牒だ。詩人の悲観は、どんなにか容易にわかりあえると思えた近親者ともわかりあえないという構造をしている。孤独は絶対でトータルである。

この全面性が孤独を打開する鍵となる。というのは、極限まで拡大されて描かれた孤独の像は、その全面性のあまりに、一点でのほころびが即座に全正面での破断へと発展してゆくという性格を帯びてこざるをえないからである。

例えば孤独は強い。それはおれと恋人とのコミュニケーションを不全とさせる。おれは恋人とさえわかり合えない。強すぎる孤独の極限的全面性。この全面性の前に打ちひしがれたおれたちの、デスパレートな心情はすでにさんざん確認してきたところだ。しかしおれはある日、ふらっと赴いたコンサートの会場で、見知らぬつまらぬ隣の男とあっさり打ち解けあったりするかもしれない。というか、そういうの、常にすでにあるよね。絶対なはずの孤独は案外いたるところで破れてたりする。そういうのに触れる度、孤独という聳え立つ悪夢的な全面性は、実際われわれ自身が執拗に絶対化してるだけで本当は回避可能なんじゃないかと思えてくるわけだ。

最終第四連、一・二行を支配するトーンは三連譲りの悲観主義である。「おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ/おれが讃辞と富とを獲たら捨ててくれ」。おれはどうせ愛することを忘れる。だからその時は遠慮なく舞台にのせてくれ(=世界の悲惨を忘れてしまっての欺瞞的な生をどうぞ送らせてくれ、という程度の意のはずだ。われわれの読解はずいぶんポジティヴな方向にまでやってきたけれど、詩人が最初に吐き捨てていた「曲芸師」への反撥は、キャンセルされずに残っている。忘れてはならない)。また例えばおれは讃辞と富とを獲ちまうかもしれない。つまり、どうせ心を失って虚飾の馴れ合いに順応しちまう(「曲芸師」にしてやられちまう)。だからその時もやはり、遠慮なくおれのことを捨ててくれ。ここにあるのは、すべての希望はどうせ裏切られるんだという、第三連譲りの未来についてのトータルな悲観主義に他ならない。

この調子が全正面で反転するのが三行以降だ。「もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ/もしも おれが死んだら世界は和解してくれ/もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ」。詩人はここで明らかにギアチェンジの自覚を覗かせている。突然添加される「もしも」を、勢いを整えるための単なる飾りと捉えることはもはやできまい。全天周的悲観的現実認識に対する、でもひょっとしたらそんなの常にすでに破れてるんじゃないかという反実措定が仮想の語彙を引き寄せて、もしも、もしもと呼応するのだ。孤独は絶対のものではない。

強大な孤独がしかし絶対ではなく、破られうるとの展望が示されてきた。しかし依然強大なコミュニケーションの断絶にいかに立ち向かうかという問題はなお残る。そこにおける詩人の回答はいかに? これこそは明示的に示されてる。友愛・平和・革命。強大な孤独の運命に対するには全的な連帯をもってして、だ。

おれたちはどうせ孤独だ。昨日はそうでもないかもと思ったが今日裏切られて実感した。明日も明後日もその先も、おれたちは相互に孤独なまま傷つけあう。それか心を売り渡して、曲芸師が提供する愉しげな芝居で愉しげなふりをするですよ。どうせ、どうせ。だがもし、もしもその運命を粉砕できる経路があるとするならば、それはおれたちの存在を根底から揺り動かすような、全的な交霊であるに違いない。もしも希望があるのなら……。

マチウ書試論 転向論 (講談社文芸文庫)

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次は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』について書きます。

*1:この想定は少しも自明でないことに注意せよ! 本文の筆者に騙されるな! 詩人の本意は明らかに、孤独という情況のむしろ称揚にある! いまその証拠を並べ立てることは時間の都合で叶わないが、孤独という情況の自覚こそがラディカリズムの条件であり希望である! 本文の筆者はこのことに気づきながら口当たりのいい誤魔化しに逃げている! 虚飾だ! 欺瞞だ! 殺せ! 暴言を叩きつけろ! お前はおれのことを大嫌いになれ! 愛してる!